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『親業』という視点~私と息子、そして私と父~

『親業』(トマス・ゴードン著 大和書房)という本があります。

<親業>とはつまり、子育てのことである。それをあえて親業としたのは、従来の子育てのなかでは、「子供がいかに育つか」と、子供のほうにばかり重点が置かれていたのに対し、本書では、「子供が育つ上で親がいかに関わるか」という親の側に焦点を当てて子育てを見直すところに、一つの大きな特徴があるからである。(「訳者まえがきより」)

幼少時は父親との関係に悩み、現在は成長した息子との新たな関係性を模索するまーさんですが、特に今は、息子との関わりについて悩むことが多く、何らかの指針が欲しいと思い、藁にも縋る思い(は大袈裟ですが・・笑)で、本書を手に取った次第です。

以下はfacebookその他に挙げた、本書の感想です。


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「誰でも親になれる。でも『よい親』になるのは難しい」全くその通りであって、世の親たちは子の年齢を問わず、彼らとの適切な関係性を常に模索し、試行錯誤を繰り返し、大小様々な悩みに日々翻弄されている。かくいう私もその一人であって、本書を手に取ったのも、そのような自らの「親子関係の行き詰まりの打開」あるいは「家族関係の再構築」を意図し、何らかの参考にしたいという思いからである。筆者は言う。「何百万という新しい父親や母親が生まれ、人間の仕事のなかでもいちばんむずかしい仕事につく――ほとんどなにも自分でできない小さな人間の肉体的、精神的健康に全責任を負い、生産的、協調的で、なにか貢献のできる社会人に育てあげるという親業に。これほど困難で、能力や努力を必要とする仕事がほかにあるだろうか。しかしそのための特別な訓練を受けた親が何人いるだろう」深く頷くしかない言葉である。そして従来の「親子間における勝ち負け指向性」に代わる第三の法として「勝負なし法」(親子が互いを人間として尊重しつつ問題点の落としどころを徹底的な対話によって決着する)を提案する。この方法の優れた点は、「実は親も完璧ではなく、子と同様さまざまな欲求を持った一人の人間であることを子ども自身に理解させられる」そして「権利と義務は表裏一体であり、人間はどのような場面においても対話によって豊かな協調関係を築いていかねばならないと、親子共々学ぶことができる」ことにあろう。本書は、我々が言葉を持つ唯一の動物としてどう生きるべきかを示唆する、非常に優れた本であると考える。『親業』と銘打ってはいるが、教育関係者、各種カウンセラー、何らかの指導者、そして大人に近づいた子ども自身にも読んでもらいたい本である。

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ここには書きませんでしたが、筆者は親から子への物事の伝え方として「わたしメッセージ」(私はあなたの言動によってこのように困っている、辛い、不公平感を持っている、だから改善したい)を使用するべきと述べています。世の親は、ともすると世間の常識や固定観念、自分の理想等によって子供をコントロールしようとし「あなたメッセージ」(あなたはこうするべきだ、あなたはだめだ、親の言うことを聞いていれば間違いない)を送り続けます。そこを改善し、親も感情を持った一人の人間として、子供に対し率直な「わたしメッセージ」を送りなさい、同時に子供の「わたしメッセージ」にもジャッジ抜きで耳を傾けなさい、そこから本当の対話が始まり、よりよい親子関係が築かれるというのです。

この「わたしメッセージ」という考え方、まーさんはとても気に入りました。
そして息子に対し、さっそく使ってみました。
結果は・・・非常に良かったと思います。

まーさんは、普段から家庭の中で問題となっている大小様々な問題について、「わたしメッセージ」を使い息子に伝えました。同時に息子のほうからも「わたしメッセージ」を使い、日常の不満を全て挙げてもらいました。
その上で、問題点一つ一つについて話し合い、時間はかかりましたがそれぞれについて、親子とも納得のいく解決法を導き出すことが出来ました。
特に驚いたのは、解決が非常に困難と思えた息子の問題について、彼自身がエゴに走らず全員の合意を得られる提案をしたこと、また息子にとって現在最も重荷になっている問題について、親子ともが本音をぶつけ合い、その結果当初は予想もしなかった結論(彼の人生を変えるような重大な決定)が導き出されたこと、です。

この「勝負なし法」による話し合いは、当然のことながら非常に時間がかかります。そのため、ワタクシ達家族も対話の途中かなり疲弊し、そのせいでけんか腰になるという場面も多々ありました。また難しい問題については一日で決着がつかず、翌日に持ち越しという事態もありました。
しかし、時間はかかりますが、今までにないすっきり感(親子で勝敗を争うのでない、全員の合意が得られる爽快感)が胸中を駆け抜けたのは確かです。

また一つ、読書という未知の世界への旅を通して新たな道が開かれた、そんな思いを持ったここ数日間の出来事でした。



ところで。
先週の金曜日。
まーさんは所用のついでに、我が父がひとりで暮らす実家に顔を出しました。
5月の連休に帰省して以来のことです。

冒頭にも書きましたが、まーさんは幼少時から父とはそりが合わず、ごく最近まで大変厳しい親子関係が続いておりました。特に母が亡くなってからは緩衝剤となる存在の欠落により、その関係はより厳しいものとなっておりました。しかし最近ようやく父のほうにも和解のムードが見られるようになり、先日はとても和やかで楽しいひと時を過ごしてまいりました。

このところ、ワタクシ一人で実家に戻ることはなかったのですが、久しぶりに一人父を訪ねてみると、誰に気兼ねするでもなく昔懐かしいリラックスした気持ちで、ビールを飲み父の作った漬物をつまみ、彼自慢の真空管アンプでショパンの「革命」を聴き、本当に近頃忘れていた自由な解放感を心ゆくまで味わうことが出来たのでした。
母の仏壇に手を合わせると、これまた本当に母と対峙しているような、不思議な安堵感で心が満たされました。

「母親」でもなく「妻」でもなく、一人の「子ども」として実家を訪れることの言うに言われぬ楽しさ。
ああ、自分は大人ではあるが一人の「子ども」、父と母の「子ども」でもあるのだなあ、と心にしみじみ感じました。

今後はちょくちょく、一人の「子ども」として実家を訪ねようと、密かに心に決めたまーさんなのでした・・・

IMG_2106_convert_20150823201219.jpg
シソの葉の醤油漬け。父が毎年、裏庭で採れるシソの葉で作ります。
ものすごく美味しい!!お土産にもらって帰りました。
息子は大喜びで、ご飯を何杯もお代わりしておりました(笑)


IMG_2105_convert_20150823201148.jpg
同じく実家の裏庭で採れたゴーヤ。こちらもたくさん採れたので、
ということでお土産にもらってきました。
翌日”ゴーヤチャンプルー”となって夕食の一品に。
みんな「美味しい!!」と言ってあっという間に完食。




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『鳩の撃退法 上下』~不可思議なメタフィクションミステリー~

本の衝動買い――
まーさんの悪癖の一つです(苦笑)






外出先で本屋を見つけると、それこそ各フロアを隅々まで探索し、面白そうな本に出くわせば、もうそれを家まで連れて帰りたくて我慢が出来なくなる――


ですから近頃では、
「買いたいと思った本は、少なくとも3回以上別々の本屋でななめ読みし、それでもどうしても欲しい・じっくり読みたい・買って手元に置きたい、と思った時のみ購入する。」
という、自分だけの“特別ルール”を心の中に設けました。
もちろんそれ以来、このルールをしっかりと遵守し、実行に移しています(笑)






しかし先日。
ついにそのルールを破ってしまいました。
表紙を1回見ただけでの「衝動買い」です。
ななめ読みすらしていません。
何故そんなことになったか。
それは・・・
本の帯にあった推薦文を読んで、どうしても買いたくなってしまったからです。


その帯の文句とはこうです。
『この作者の新作を、ずっとじっと、ひたすら待っていました。待っていたその時間も、一瞬で読む快楽に変わります――角田光代さん(作家)』
『ノックアウトされました。この妙味、このバランス!巻擱くを能わずとはまさにこのこと。おもしろかったー。――江國香織さん(作家)』


まーさんの大好きなお二人の作家、角田氏・江國氏が絶賛しているこの本は一体何なのだ?!


そう思ったら、どうしても・今すぐに、読んでみたくてたまらなくなり、「3回以上ななめ読みルール」をあっさりと捨て、本を持ってレジに並んだのでした(^^ゞ


その本とはこちら。
鳩の撃退法 上鳩の撃退法 上
(2014/11/13)
佐藤 正午

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鳩の撃退法 下鳩の撃退法 下
(2014/11/13)
佐藤 正午

商品詳細を見る


佐藤正午氏、5年ぶりの長編小説となる本書は、ファンにとってはまさに“待望の”新作だったようです。まーさん実は、今回初めて佐藤氏の小説を読んだのですが、「久々に読後の余韻が残るミステリーに出会った」という感想を持ちました。





               ◇  





映画、芝居、小説、何でもそうですが、いわゆる“フィクション”には、日常生活を侵食するほどのパワーを持った作品があります。


映画や芝居は、まとまった時間的拘束が必要となる”フィクション”でありますが、小説は、仕事や家事の合間に少しずつ読み進めることが可能な”フィクション”であります。これは一つのメリットと言ってもいいでしょう。


しかし、それゆえに、その小説世界があまりにも密度の濃いものであった場合、日常生活に戻る際、夢から現実への激しい揺れを感じ、その二つの世界のギャップを埋めるために暫し時間を要する、といったことを繰り返し体験しなければならないデメリットも持ち合わせています。まさにこの『鳩の撃退法 上下』は、そういった類の小説です。





本書はあえてジャンル分けするとすれば、ミステリーにカテゴライズできると思うのですが、内容的には、作家である主人公・津田伸一が、自身の遭遇した事件を小説に書き起こすという、メタフィクションとなっています。つまり、「『鳩の撃退法』という小説内で起きる〈現実〉の事件」と「主人公・津田の描く〈フィクションとして〉の事件」が絡まり合って、とにかく一筋縄ではいかない、複雑極まりないプロットを持っております。その、先の見えない揺れ動く不可思議な世界観に、読者は軽い酩酊すら覚える、といったところでしょうか。






実際、この小説をちょこちょこと読みつつ、掃除や洗濯、買い物といった日常生活をこなすのは、どうにも難しい作業でした。自分の心が小説世界にガッチリとからめとられてしまい、日々のルーティンワークに戻るのが、非常に困難に思えてしまうのです。


ですから、できることならばこの本、まとまった時間を取り、集中して一気に読破してしまわれることを、皆さまにはお勧めしたいと思います。





               ◇





しかしまあ、著者の佐藤正午氏は、一体どのようにしてこの「時間と空間・小説内現実と小説内フィクション」が入り乱れる摩訶不思議な物語を書き上げたのでしょうか。


ミステリーとしての伏線をあちこちにちりばめつつ、メタフィクションとしての「小説の作法」的な解説をも主人公にさせ、なおかつ人間存在のそこはかとないユーモアと哀しみをも漂わせるという、何とも複雑怪奇な離れ業をやってのけた小説、それが『鳩の撃退法 上下』だと、まーさんは考えます。






とはいえ、本書はあくまでもミステリー。純文学系の作品ではありませんので、読まれる方は“読みごたえのあるエンターテイメント”として本書を手に取られると良いかと思います。「『鳩』とは一体何のメタファーか?」などと作品分析し始めると(いや、ついついやりたくなるのですが・・・汗)面白さも半減してしまうかもしれませんので、単純に「楽しむ」という目的で、お時間があればぜひこの『鳩の撃退法 上下』、読んでいただければと思います^^





皆さまおススメのミステリー作家・小説は?
ぜひ教えて下さい!!
↓ヽ(^。^)ノ↓

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『和食の知られざる世界』 辻芳樹

『和食の知られざる世界』(辻芳樹 著)という本があります。
筆者辻氏は、皆さまご存じ「辻調理師専門学校」の校長にして、辻調グループの代表をされています。

和食の知られざる世界 (新潮新書)和食の知られざる世界 (新潮新書)
(2013/12/14)
辻 芳樹

商品詳細を見る


本書は以下のようなコンセプトで書かれております。

料理研究家として知られる辻静雄を父に持つ著者は、幼い頃から味覚の英才教育を受けてきた。そしていま、世界が賞賛する「和食」の未来に大きな希望と一抹の不安を抱いている。なぜ海外の一流シェフは和食に驚嘆したのか?料理を最高の状態で味わうコツとは?良い店はどこが違うのか?歴史的変遷から、海外の成功例や最先端の取り組みまで、世界の職を俯瞰的に見つめ続けてきた著者だからこそ書けた、和食の真実。(本書 表紙裏紹介文より)





以前当ブログにて、博多ラーメン「一風堂」がニューヨークに進出し、当地のスタイルに合わせた提供の仕方を工夫し、一人単価50ドルという、日本人にしてみれば破格の値段であるにもかかわらず、爆発的な人気を博している、という記事を書きました。その元ネタとなっているのが本書『和食の知られざる世界』であります。
だいぶ前に読了しておりましたが、なかなかご紹介する機会が得られず、今になった次第です。
12月5日に『ミシュランガイド東京2015』が発売されたというニュースを見て、ふと本書を思い出したので、今日はここに雑駁ながら感想を綴ってみたいと思います。





まず一言で申せば、本書は驚くべき密度と正確さで和食の過去・現在・未来を整理する共に、辻氏の和食への愛情と情熱・個人的研究の成果が余すところなく語られているという、近年稀にみる良書であります。





内容を皆さまにご紹介するにあたり、まずは大体の内容を知っていただくために、目次を列挙してみたいと思います。

序章  和食の驚くべき広がり
第一章 「カリフォルニアロール」は和食か?
第二章 和食はそもそもハイブリッドである
第三章 「美食コーチ」の必要性
第四章 和食の真髄が見える瞬間
第五章 ニューヨークで本格懐石を
あとがき


こんなことはまーさんにとっても滅多にないことですが、とにかく、どこか一部分を抜粋し重点的に論じることが不可能な本です。平易な中にも筆者の食に対する知識と思いが全体にちりばめられ、本そのものが、まるで一つの精巧な織物のように出来上がっているのです。





父親の方針で、12歳から27歳までイギリス・アメリカにて留学生活を送った氏は、子供の頃から「異文化の中の和食」を強く意識しつつ生きて来ました。

かつてイギリスにおいて、ステイ先のご夫婦に「魚の出汁」が全く受け入れてもらえなかった経験を持つ辻氏。しかし現在では辻調グループ代表として、日本人に違和感のない和食テイストが世界を席巻する現状を目の当たりにし、氏は「隔世の感を覚える」と述べておられます。





辻氏の論において、特に面白いと思った部分を以下に挙げます。

和食は次の三つの変化変容を遂げている
1.「ギミック(仕掛け)和食」
  70年代のカリフォルニアロールに代表される料理。
2.「ハイブリッド和食」
  フランス料理など、世界中の料理において間違いなく日本の
  料理文化・技術の影響を受けてそれを外国料理の文脈の中で
  表現することによって生まれた料理。
3・「プログレッシブ料理」
  異文化の中で、その民族が好む味や食感に会うような和食
  を作り出そうとする試み。
 

和食はそもそもハイブリッドである(和食の歴史的特性と変遷)。
・日本には、南北に細長い地理的特性によって生まれた、
 豊かな漁場そして豊かな郷土食、 「自然や季節」に対する
 独特の感性や美意識がある。
・古代においては大陸・巨大文明(中国)の影響を受けている。
・鎖国により和風文化が定着し、江戸という巨大マーケットの中で、
 寿司に代表されるファストフード専門料理が誕生した。
 その一方、別の流れで茶の湯と懐石料理という 
 オート・キュイジーヌが確立した。
・識字率の高さが料理書を生み、江戸時代の食文化を
 ハイレベルなものへと押し上げた。
・明治維新後、「和」対「洋」の概念が誕生した。


総合芸術としての料理を真に味わい、和食の審美眼を磨くために
必要なことは?
・「最高のものから経験する」こと。
・「考えながら食べる」こと(食材の状況、原価の予想、調理方法、
 味付け、サービスの状況とシステム、テーブルの配置、 
 お客の動線、インテリア等々)。
・自分を「無」にしてその料理に臨むこと。
・食事を共にする人を選ぶこと(喋りすぎない、ケンカしない、
 食に敬意を持っている)。
・食事会には6人以上で行かない(和食器は一組五客が基本であり、
 アラカルトで頼む店では6人以上では同じタイミングで料理を提供できない)。
・ここぞという店に出かける時は自分の体調を完璧にしておく。
・店をローテーションする。
・身近に和食のコーチを持つ。
・カウンター割烹において料理人にあれこれ質問する。


和食の真髄が見える店の紹介
・『草喰 なかひがし』
・『壬生』
・『亀谷良長』ブランド『サトミ・フジタbyカメヤ・ヨシナガ』


『ブラッシュストローク』の新たな試み。
ニューヨークの人気フランス料理店『ブーレイ』のオーナーと、
辻調グループとのコラボレーションによって実現した和食レス
トラン。まさに「プログレッシブ料理」を体現するべく挑戦を
続ける、「和」と「洋」の揺らぎの中に浮かび上がった本格懐石
の店である。






昨年12月、ユネスコの無形文化遺産に登録された和食ですが、その登録に向けて尽力されたのが、この本の著者・辻氏だそうです。
氏は本書のあとがきにおいて、次のように述べられています。

登録そのものを一過性のイベントで終わらせてはいけない。むしろ継続的な継承と発展のために、それぞれが出来ることをそれぞれの責任において荷っていく必要があるはずだ。多くの識者が指摘する通り、二十一世紀の最大の課題のひとつは食糧問題である。(中略)和食文化は確かに素晴らしい。ただ、それを支えている生産の現場が疲弊し、場合によっては消滅の危機にさらされている。この難問に「食文化」を支える私たちも立ち向かわなくてはいけないはずだ。





和食の歴史的背景をきちんと踏まえ、その上で「食のプロ」としてどう生きるべきか、どうしたいか――あくなき探求心を持って突き進む辻氏の姿に、まーさんは心から「本物」というもののすごさを実感いたしました。

ただ一つの事柄を深く掘り下げ追求する氏の生き様は、全くもって驚くべきことばかり。自分には到底真似のできない、雲の上の出来事であるとは感じましたが、それでも、ある種の勇気や生きる力をもらうことが出来た、貴重な読書体験でした。

もし機会がありましただ、ぜひ皆様にも、この「和食の今昔」を論じた本書を手に取っていただければと思います^^


和食の奥深さに思わずうなります・・・
因みに皆さま、今日の献立は??
↓(≧▽≦)↓

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「臨死体験の本」と「禅の教え」

『喜びから人生を生きる!』(アニータ・ムアジャーニ著)という本があります。

喜びから人生を生きる! ―臨死体験が教えてくれたこと喜びから人生を生きる! ―臨死体験が教えてくれたこと
(2013/06/18)
アニータ・ムアジャーニ

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本書は、当ブログでリンクさせていただいている「Bliss of Gaia」の凛様の記事で、昨年紹介されていました。まーさんはその内容に惹かれてすぐさま購入したのです。
しかし・・・
あれからどれ程の時が過ぎたでしょうか・・・
本書は見事に「積読」になったまま、部屋の片隅に打ちやられていたのでした(凛様ゴメンナサイ・・汗)

しかし先日、本棚の整理をした際、なぜだかは分かりませんが、手に取ったこの本がどうしようもなく気になり始めました。
そして、とうとう読み始めたという次第です。
本書は平易な文章で書かれており、とても読みやすく、ほんのちょっとした隙間時間を使い、ちょこちょこと読み進めることができました。

内容は、思った通り非常に示唆に富んでおりました。
そして現在、我々の周りで起こっている新しい潮流・新しい思考法(というか“生き方”でしょうか)と、ものの見事にシンクロしていることにも驚きました。





本書は、シンガポール生まれ・香港育ちのアニータ・ムアジャーニという女性による、驚くべき末期癌治癒のレポートです。彼女は癌に侵され危篤状態に陥りますが、その際いわゆる“臨死体験”をします。この“臨死体験”中の悟りがきっかけとなり、この世に再び舞い戻って来た後は、驚異的な早さで彼女の身体から癌が消滅し、現在は健康で幸せな日々を送っているという、常識では計り知れない事実が綴られています。

彼女は幼少期から多文化・多言語の中で育ち、それがゆえに自らのアイデンティティの揺らぎに、密かに苦しみ続けたそうです。両親からの文化的宗教的抑圧は強く、しかし彼女はそれに屈することなく最良のパートナーと出会い結婚します。ところがその後まもなく、彼女は癌に侵され、病状は悪化し、遂に生死の境をさまよい、臨死体験をするに至るのです。

肉体を離れた彼女は、直線的時間軸からの解放を経験し(過去・現在・未来が同時存在する状態)、”私“が宇宙の中心であり全てであることを理解し、人はみな一つで分離した我々はやがて全体へと戻る(いわゆるワンネス)ことを知ります。
そして、自らの病の原因は「恐れ」にあったことを悟り、それが分かった今、この世に戻ってくれば必ず癌は完治すると認識し、肉体のある世界へと生還を果たしたのです。そして彼女が思った通り、末期癌は医療的措置無しに急速に治癒していきました。





アニータはは言います。

「なぜ私が癌にかかったと思うか」という質問の答えを一つの言葉にまとめれば、”恐れ“ということになるでしょう。
 では、私は何を恐れていたのでしょうか?何もかもすべてです。たとえば、失敗すること、嫌われること、人をがっかりさせること、十分じゃないことなどを恐れていました。もちろん、病気も恐れていました。特に癌とその治療法に恐怖感を抱いていました。私は生きることを恐れ、死ぬこともひどく怖がっていたのです。
 恐れはとらえどころがなく、気づかないうちに少しずつ忍び寄ります。おそらくほとんどの人が、幼少期から恐れるように教えられてきたのではないでしょうか。生まれつきそうだったとは思えません。

身体の機能が止まった時、私がいた向こう側の世界は、恐れでゆがんでない私自身の素晴らしさを見せてくれました。(中略)
そのような拡大した意識の状態で、私は、いかに自分自身につらくあたり、批判ばかりをしていたかを理解しました。そこでは、私を罰する人は誰もいませんでした。私が許さなかったのは他人ではなく、自分だったのだと、やっとわかりました。私を非難したのも、私が見捨てたのも、私が十分愛さなかったのも私自身だったのです。(中略)私はその時、宇宙の美しい子どもとして自分のことを見ていました。私は存在するだけで、無条件の愛を受ける価値があったのです。





引用が長くなりましたが、現在肉体をもってこの地球に生きる我々は、アニータの言うように善悪・正邪といった二元的価値観、あるいはそれぞれの生育環境を背景とする価値観に縛られ、いわゆる自らの生きる指針や存在の意味を外の世界に求めようとすることが多いように思います。
しかし彼女は、本来の我々はそうした存在ではないというのです。我々は誰しも存在そのものが「完璧」であり「宇宙」であり「全てと一体」であり「愛」であると――彼女はこれを「無限の自己」と表現しています。

彼女はこの臨死体験から得た自らの感覚を人々に伝えるために、非常に苦心して言葉を選び、言葉にならない境地を何とか表現しようと最大限の努力を払っているように見えます。

その中で、特にまーさんの心に残ったのは「許す」という言葉です。

では、許すとは一体どういうことでしょうか?私は、許すという言葉を、自分や他人への共感、無条件の愛、思いやりという言葉に置き換えたいと思います。今の私は、誰かを判断したり、許しを求める必要性を生み出すかわりに、全体の中で一人ひとりが演じている多種多様な役割を大切にし、それに敬意を払っています。





自分への愛があふれていれば、他者への愛も自然と生まれてくる。逆に言えば、自分への愛がない者に、他者への愛は生まれてこない。我々がポジティブ・ネガティブ、善悪、プラス思考・マイナス思考と二元的にに認識しているものは全て、完璧で調和のとれた全体の一部にすぎない。だから我々の心に例えばネガティブなマイナス思考が起こったとしても、それを否定する必要はない。それを批判せずに受け入れて、ただ自分の中を流れるのを許す(つまりそういう自分をも無条件の愛をもって「許す」)ことが肝要なのである。





アニータの言葉は深く、そして無限の広がりを持って心に響きます。生きることが楽になり、これまで頑丈にまとっていた堅い鎧が少しずつはがされていくような、ゆったりとした解放感を味わうことができます。

しかし、言葉で書かれたものをマインドでなくハートで感得するのは、容易なことではありません。
「理解」でなく「実感」として、彼女の言葉を自らの心に落とし込み、それを血肉として持続させるのは大変に難しいことです。「分かった!」と思った次の瞬間「分からない・・」に変化している、そんなもどかしさを感じます。






と、このようなことを考えていて思い出したのが、日本における「禅の教え」です。
アニータも本書の中で「禅のような性質を引き出して」と触れていますが、まさにこのアニータが述べていることは、「内面の本性に立ち返る」という禅宗の教えに通ずるところがあるように思います。


禅宗においては、

文字や言葉で教えることを避けて座禅を進める理由として(中略)自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになるからであると説く。
(wikipedia「禅」より)


のであり、これはまさしく、外部に自らの人生を委ねるのでなく、自分の内部を深く見つめるべきと説くアニータの言葉を想起させます。

沢庵和尚は

実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には座禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できる。
(同上)


としています。





これまでまーさんは、仏教でいうところの「自分の内奥が仏である」との言葉が、いまひとつ実感として腑に落ちないところがありました。しかしアニータの言葉を読んで、わずかにではありますが、その意味するところが少し心に落とし込まれた気がいたします。また同時に、座禅修行によって概念の固定化や分別といった「とらわれ」を離れようとする禅宗の教えも、理屈ではなく感覚として、初めて理解できたように思います。





アニータは本書のあとがきにおいて、「これは何度言ってもいい足りないくらいですが、自分自身を楽しみ、自分や人生についてあまり深刻に考えすぎないでください」と述べています。

“毎日たくさん笑うこと”
“日々の問題をユーモアや愛のベールを通して眺めること”

我々自身が幸せになることが―いやそれだけが―この世で成すべき我々の仕事なのだと、いつも心に留めおきたいと思います。




追記
当ブログにリンクさせていただいている「New Order」のGOMA28様が、この『喜びから人生を生きる!』の感想を記事にしていらっしゃいます(→記事1記事2)。美しく鋭く、知のタペストリーともいえる文章に、暫し圧倒されます。




自分を「許す」こと。「ありのまま」を愛すること。
↓(*'▽')↓
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苫米地秀人『「日本」を捨てよ』

以前からお伝えしている通り、まーさんは息子と共に「21か国語で話そう」クラブで活動しております。

そもそも、なぜこのようなクラブに入ったのかと申しますと、「元々、様々な外国語を音の波のように聞くことが好きで、かつそれらを日常生活に困らない程度に習得したい」と考えていたからなのですが、しかしそれ以上に「単言語社会である日本に暮らすことが、どうしようもなく息苦しく、とにかく多言語の中に身を投じたい」というのが当面の最大の理由でした。

言語とはご承知の通り、それを話す人々の文化・慣習と表裏一体をなすものです。つまり、「日本語という言語」はその背景に、「日本の文化・慣習」をずっしりと背負っているのであり、日本語を使用する者には否応なくその文化的束縛が伴うのであります。
その閉塞感、息苦しさ・・・まーさんはいつしか、この重圧に耐えきれなくなり、それこそ本当に息をするのも苦しくなってきました。

そんな時に出会ったのがこの「21か国語で話そうクラブ」でした。
まあここは、何と居心地の良い空間だったことでしょう!!

クラブのドアを開けると「オラ!」の挨拶。帰る時には手を上げて「再見!」。活動中に飛びかう言葉は「メルシー」「ムイビエン」「スレズシ」「クェンチャナ」等々・・・
どれもみんな、違う国の言葉です。
日本語=日本的価値観から一歩離れ、様々な言語によって自由に交流する場。そこには地球規模に広がる心の自由が確かに存在していました。
地球上のあらゆる人々に開かれた心。“地球文化”という考え方を当たり前のように感じる心。本当に、酸素マスクをつけたように呼吸が楽になり、まーさんはそれこそ命拾いをしたのでありました(笑)


そんなまーさんが、先日たまたま本屋で購入した本がこちら。
「日本」を捨てよ (PHP新書)「日本」を捨てよ (PHP新書)
(2012/03/15)
苫米地 英人

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筆者・苫米地氏はとんでもなく肩書きの多い方で著書も多く、その内容も多岐に亘っており、時々TV出演もされていますが、一部(ネット等)ではかなり痛烈な批判を受けてもいる方です。

そのような方の著作ですから、賛否両論あるかとは思いますが、まーさんは本書の題名である『「日本」を捨てよ』と、表紙裏の「この国を覆う息苦しさの正体」という言葉に惹かれ、試しに読んでみようと購入を決めました。

感想を一言で申せば、「論証あるいは代替案抜きに様々なことが語られており、申し訳ないが、突っ込みどころが満載(笑)。しかし軽い読み物として、また日本再考のきっかけとして読んでも損はない。」といったところでしょうか。



気になる内容ですが、章立てはこうです。

第1章 日本人はなぜ立ち上がらないのか
第2章 日本人はなぜ幸福を感じられないのか
第3章 「日本」という枠組みを疑え
第4章 正しい「日本」の愛し方



いかがですか?多少なりとも興味をお持ちになったでしょうか。



では次に、各章で述べられていた要旨を簡潔にまとめてみます。



第1章 日本人はなぜ立ち上がらないのか

1.儒教に洗脳されているため。
 儒教=君子(エリート)が徳を持って統治する社会。
 裏を返せば人民の主権や自由は否定され、
 民は支配者の言うことに従順に従うべし、という思想。
2.日本は相互監視社会(「村八分」という抑止力)であるため。
3.日本は「パノプティコン社会」であるため。
 パノプティコン=哲学者ミシェル・フーコーの言う監獄監視システム。
 放射状の独房の真ん中に監視塔が置かれていると、
 たとえそこに看守がいなくとも 囚人は気を抜くことが出来ない
 というシステムである。
 そして日本でよく言われる「お天道様が見ている」は、
 「どこにも他人の目はあるぞ」の脅しである。




第2章 日本人はなぜ幸福を感じられないのか

例えば裁判時、被告人の見た目や態度で判決が左右されるような、あいまいな「情状酌量文化」がまかり通っているから。これは合理的かつ客観的な意思決定を行う民主主義の論理と反しており、儒教的な上下関係の伝統、あるいは一神教的フェアネスの欠如により助長されている。
またフェアネスのない社会は機会の平等がなく、「世襲」に代表されるような元々有利な立場にいる人と、そうでない人との間で、自己実現の可能性に大きな開きがある。そしてその封建社会を裏支えしているのが、日本の「三育主義」のうちの「徳育」「体育」である(この二つにより、日本の子供達は徹底的に秩序を守るよう仕込まれ、ユニークで自由な発想はつぶされてゆく)。
こうした理由により日本人は未来に希望が持てず、幸福感を感じられないのである。



第3章 「日本」という枠組みを疑え

ここまで閉塞感を感じながら、なぜ日本人は相変わらず日本(国家)を信用し、日本にしがみつくのか。
それは儒教思想にある「優れた人格者でなくては、支配者になってはいけない」が、いつのまにか「支配者はみな人格的に優れた、良い人のはずだ」に論理転換してしまったからである(だから支配者を盲目的に信じてしまうのである)。
また脳の特性であるスコトーマ(見たくない現実を脳は認識できない)が働いていることも事実である。

そして、そもそも「国家」「国民」とは人工的に作られた概念であり、サンフランシスコ講和条約を厳密に解釈すれば、「日本国」という独立国は存在しないことになっている。したがって「日本国民」という概念もまた幻想である。

ならば、「日本人」は存在しないのか?
そうではない。国家を前提としなくても、ある文化を共有している人々をひとまとまりの集団として認識することは可能である。
そこを踏まえて「日本人」とはどういう人々かを定義すると、
1.日本人とは「日本方言を話す人」
2.日本人とは「日本で義務教育を受けた人」
と言える
だろう。

以上を理解した上で、我々が「日本」「日本人」という枠組みを飛び出すにはどうしたらよいか。
それにはまず、一人ひとりが「やりたいことをやれ」これに尽きる(個人の自由度が高まると、日本人が烏合の衆になるリスクも高まるが、それでも我々は一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩踏み出すしかない)。



第4章 正しい「日本」の愛し方

筆者が提案するのは、従来の「無教会派」「無政府主義」の考え方をベースに、国家と個人との関係を自由な契約に任せる「実質的な無政府主義」の導入である。
具体的には、
第一段階:道州制を導入し、住む場所を変えるだけで自分が好ましいと思える政策の政府を選べるようにする。
第二段階:土地に縛られない政府選択制を導入する。ある程度のレベルが確保された政府の中から、個人は政府を選択して契約できるようにする


こう書くとまるでSFの世界のように思えるかもしれないが、実際EU圏民は圏内の好きな国に移住できるし、アメリカは連邦制なので各州が独立国と言っても良い。決して上記の提案は、非現実的なものではないのである。
個人が政府を選べるようになり、それによって自由とフェアネスの度合いが大きく向上した社会。これこそが現実的で実質的な、新しい無政府主義の形である。そしていずれは国境を越えた人生設計が、日本人の間で一般化していくはずである。

真に日本を愛するなら、枝葉の事実に知悉せず、まずは「日本」と適切な距離を取ること。あえて「日本」を突き放すべきである。
それにはまず、
1.一度は外国で暮らしてみる。
2.外国に旅行する機会を増やす。
3.日本語以外の言語を真剣に勉強してみる。

などを実践するとよいだろう。
日本を愛し、本気で日本を救いたいと考えるなら、より高い抽象度から、日本の美点・欠点を認識し、世界全体の中で日本という国がもつ真の価値を見極めよう。





以上が、本書の大まかな内容です。
皆さま、いかがでしょうか。
ざっと読んだだけでも、「これは首肯しかねる」という部分あり、また逆に「なるほどその通りだ・面白い」という部分あり、まあ全体としては興味深く読める本なのではないでしょうか。


まーさんとしては赤字の部分が疑問に思う点、青地のところがその通り、と思う点でありました。
赤字の部分についてのまーさんの見解ですが、

★日本は「パノプティコン社会」であるというが、ワタクシ自身は「ヨコの関係」を重視する日本の特性から見て、ルース・ベネディクトの「恥の文化」あるいは阿部謹也の「世間」のほうがより的を射た表現であると考える。
また、「お天道様」=「他人の目」と氏は解釈しているが、ここにはむしろ、古来より続く日本の自然信仰の風習が色濃く残っていると考えた方が良いのではなかろうか。

★裁判上ということを離れて考えれば、「見た目や態度で左右される」社会は日本だけではない。例えばアメリカの大統領選などでは、状況に応じて立候補者がネクタイの色を変えたりするのは当たり前の話である。
また「フェアネスのない社会は機会の平等がない」というが、ではキリスト教圏の国々では本当に機会の平等が保障されているのか。多くの場合貧富の差はほぼ世襲のように踏襲され、貧困層は貧困層のまま、なかなかそこを脱却出来ないのが現状ではないのか。

★現在の日本人が「支配者は皆人格的に優れている」と盲目的に信じているとは到底思えない。むしろその逆ではないのか。

★道州制は画期的であると思うが、「生まれ育った地を離れたくない」といった情緒的側面、あるいは「現在の仕事を離職してまで移住したくない」「引越しを繰り返すほどの経済的余裕はない」などの現実的側面にはどう対処するのか。そこまで道政府が面倒を見てくれるということなのか。
また、「個人が複数の政府から一つを選択できる」とは具体的にどのような形を持つものなのか。氏はEU圏の例を挙げているが、日本国内で自己完結する形でこれを実現させるには、とてつもない変革が必要であり、それこそSFの世界という感が否めない。ならば日本も近隣諸国とEU諸国のような関係を形成せよということか。それもまた別の意味でSF的に実現不可能な気がする。





とまあ色々述べてきましたが、とにもかくにも、これからは個人の力が大きく世の中を動かす時代。

人々が心の声に従って「やりたいことをやる」のは、ある意味当たり前の世の中となって来るでしょう。

もちろん、戦争や貧困により、それがままならぬ国が世界には多数存在することも承知の上です。

しかし少なくとも今後の日本においては、人々が「やりたいことをやる」姿勢を互いに認め合えるような世の中にしたい。

そうすれば、時間はかかるかもしれませんが、いずれは調和と幸福に満ちた「息苦しくない日本」が作り上げられるのではないかと、まーさんは非常にポジティブに考える(いや考えたい)次第であります。





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Author:まーさん
息子と夫と私、考え方も行動もてんでバラバラな3人で暮らしています(笑)でも仲良しです。
音楽、映画、読書が好き。芸術鑑賞、外国語、旅行も好きです。ゆ~る・じゃぱんでは、日本大好きまーさんが暮らしのに漂う日本の香り・日本文化をゆる~く綴っていきます。

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