謙遜の美学
日本には「謙遜の美徳」という言葉があります。
自らが一歩へりくだることで相手を立てるという、我が国独特の文化・精神的嗜好であります。
我々日本人は、幼い頃から両親や周囲の大人を通して、「謙遜」がよりよい人間関係構築に必要不可欠であることを、陰に陽に教えられて育ちます。
そのためでしょうか、我々の社会は長い間、一人目立ちを回避せんとする“横並び”意識や、“出る杭は打たれる”という暗黙の恐れに支配され、それはあらゆる世代のコミュニティ(学校・近所づきあい・職場etc)に深く浸透し、目に見えない縛りとして我々の心をがんじがらめにし続けて来ました。
しかし近年、そうした日本的「謙遜の美徳」(あるいはそこから派生した“横並び”意識)は、情報化社会とリンクするグローバル化の波によって相対化され、また地球規模で飽和状態を迎えつつある競争原理社会崩壊の波に乗って見直しが図られている――個人的にはそんな印象を持っておりました。
具体的には、「謙遜」はもはや美徳ではなくなり、
○他者と比べず、自己を絶対評価し、長所をアピールする。
○自己の長所短所を全て愛する。
○他者の長所短所をも全てありのままに認める。
こんな在り方が、徐々に我々のスタンダードとなりつつあると、一人合点しておりました。
ところが・・・
実は、そうではなかった、のですね~~(^^ゞ
というのも・・・
昨日、我が息子の小学校で、今学期最後の授業参観・懇談会があったのですが、その懇談会の際、例の「謙遜の美徳」が、未だ目に見えない形で我々の社会を支配している現実を、まーさんは目の当たりにしてしまったのでした~~(@_@)
昨日、授業参観後に行われた懇談会は、担任の先生が「先ほどの授業の感想と、普段のお子さんの様子を一人ひとりお聞かせください」と最初におっしゃったため、保護者は順番に、上記の事柄について思うことを語る、という形で始まりました。
まさに、この時です。
まーさんがいわく言いがたい驚きと違和感を覚えたのは。
いったいワタクシが何に驚き、違和感を覚えたかと申しますと。
それは――
何と、ほとんどすべて保護者が一様に、「我が子のダメな所」を次々と、当然のように語っていかれたことです(驚)
こ、これは一体どうしたことか??
む~~~(@_@)
・・・とにかく異様です、まーさんにとっては。
しかし・・・
改めて考え直してみると、それこそが従来の日本社会、の在り方なんですよね・・・
「謙遜」という名の「ダメ自慢(?)」
考えてみたらこんなのは、今までもママ友との間で幾度となく繰り広げられてきた光景でした(^^ゞ
これをおかしいと思ってしまうまーさんの方が、ある意味ズレているのかもしれません。
やはり伝統とは、良きにつけ悪しきにつけ、そう簡単には変わらないものであり、新しい潮流に快適さと開放感を覚える者にとっては、非常に息苦しさを感じるものなのでしょう。
ところで。
この懇談会で保護者の皆さんから挙がった「我が子のダメな所」。一体どんなものがあったのか、一例を申し上げますと・・・
(ウチの子は)
○授業中の姿勢が悪い。
○宿題に率先して取り組まない。
○自主学習に工夫が足りない。
○肝心なところでケアレスミスをする。
○字が汚い。漢字が書けない。
○忘れ物が多い。
う~むむむ(@_@)
やはりここには「謙遜の美徳」、即ち「我が子を一段低く言うことで周囲の皆さんを立てよう」という日本の伝統的思考が働いているように思います。
いや、もっとあけすけに言ってしまえば、「我が子を一段低く言わないと、”横並び“社会を良しとするママ友コミュニティから逸脱し、後でどんな陰口が待っているか知れたものではない」という恐怖感に、誰もが知らぬ間に支配されている、ということなのかもしれません。
では、かくいうまーさんはこの「ダメ自慢(?)」の中で、いかなる発言をしたのか。
それは――
我が息子を――
臆面もなく「褒めて」しまったのでした~~(爆爆爆)
例えば、
○授業中の姿勢が以前に比べて良くなった。
○自主学習に一生懸命取り組んでいる。
○友達と仲良く遊び、学校での出来事を色々と報告してくれる。
などなど。
もちろん学習面でのウィークポイントについて、学校・家庭で連携して指導できればありがたい、などということも言うには言いましたが、それはあくまで「PとTのアソシエーション」という観点から発言したのであって、決して我が子を謙遜、一段低く申し上げたのではありません(誓)
さて。このようなまーさんの発言は、他の保護者の皆さんにどう受け止められたのか。
・・・ぶっちゃけ、皆さんひいて(るように見え)ました(爆)
それまで、次々に繰り出される「ウチの子こんなにダメなんです」的発言に、和やかな笑いが起こっていた教室が、まーさんの発言によって瞬時に冷ややかな(とは言い過ぎかもしれませんが)静けさに包まれ、皆さん微動だにせずワタクシの話をお聞きになっておりました(苦笑)
自分や身内を卑下することでその場を和やかにする、というこの日本独特のコミュニティ術は、よく言われることですが、欧米人には全く理解できないあり方です。
たとえば彼ら欧米人は、良く知られていることですが、我が子をこれでもかというほど褒め倒し、自慢し、その長所を積極的にアピールします。そのせいでしょうか、欧米の子ども達は、日本の子ども達に比べて自己肯定観が強く、「どうせ私なんか」とか「あまり目立ちたくない」とか、“横並び”を強く意識するような発言をほとんどしません。むしろ逆に「私はこういうことができます」「私はこのことに自信があるので前に出たいです」といった生き方がごく普通のこととして行われています。それが皆さまご存じの通り、欧米の伝統的思考法なのです。
日本人・欧米人のみならず、そのほかの地域に住む人々も含めたそれぞれの伝統的思考法は、言うまでもなく宗教・政治・地理的特性・気候・食文化などなど、様々な要因がからみあい、長い年月をかけて培われた、立派な尊重すべき思考法であるとは思います。そして当たり前ですが、「どの文化のどの思考が優れている」という相対的価値判断は出来るものではありません。それぞれの地域において「伝統として根付いてきた思考法」、ただそれだけのことです。
しかしまーさんにとって、先ほどから申し上げているこの日本における「謙遜の美徳」、これにはどうしても息苦しさを感じてしまうのです。
おそらくそれは、ワタクシにとって「謙遜」というものが、「“横並び”でなければ村八分」という相互監視体制を想起させ、また逆に「相対評価・競争原理社会の中で“横並び”から抜きん出た者だけが成功者である」という、時代遅れともいえる価値観を見せつけられるようで、心がざわざわするのだと思います。
『みんなちがって、みんないい』
とは、金子みすゞの詩だったでしょうか。
我が尊敬する岡本太郎氏は、
『他人が笑おうが笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。歌に限らず他人の判断ばかりを気にしていては 本当の人間としての責任がもてない。もし自分がヘマだったら、“ああ、おれはヘマだな”と思えばいい。もし弱い人間だったら“ああ弱いんだなあ”でいいじゃないか。』
と言っています(岡本氏の著書についての過去記事はこちら。カッコイイです!まーさんのバイブルです!)
「謙遜」という日本の伝統的美徳。
その言葉が本来持つ、美しく控えめな精神を心の内に尊重しつつも、それに縛られ型にはまることなく、自由に自分自身を生き切ってみたいと、まーさんは考える次第であります。

息子君の宿題プリント
この間違いを「バカめ(怒)」ととるか「ユニーク(喜)」ととるか・・
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自らが一歩へりくだることで相手を立てるという、我が国独特の文化・精神的嗜好であります。
我々日本人は、幼い頃から両親や周囲の大人を通して、「謙遜」がよりよい人間関係構築に必要不可欠であることを、陰に陽に教えられて育ちます。
そのためでしょうか、我々の社会は長い間、一人目立ちを回避せんとする“横並び”意識や、“出る杭は打たれる”という暗黙の恐れに支配され、それはあらゆる世代のコミュニティ(学校・近所づきあい・職場etc)に深く浸透し、目に見えない縛りとして我々の心をがんじがらめにし続けて来ました。
しかし近年、そうした日本的「謙遜の美徳」(あるいはそこから派生した“横並び”意識)は、情報化社会とリンクするグローバル化の波によって相対化され、また地球規模で飽和状態を迎えつつある競争原理社会崩壊の波に乗って見直しが図られている――個人的にはそんな印象を持っておりました。
具体的には、「謙遜」はもはや美徳ではなくなり、
○他者と比べず、自己を絶対評価し、長所をアピールする。
○自己の長所短所を全て愛する。
○他者の長所短所をも全てありのままに認める。
こんな在り方が、徐々に我々のスタンダードとなりつつあると、一人合点しておりました。
ところが・・・
実は、そうではなかった、のですね~~(^^ゞ
というのも・・・
昨日、我が息子の小学校で、今学期最後の授業参観・懇談会があったのですが、その懇談会の際、例の「謙遜の美徳」が、未だ目に見えない形で我々の社会を支配している現実を、まーさんは目の当たりにしてしまったのでした~~(@_@)
昨日、授業参観後に行われた懇談会は、担任の先生が「先ほどの授業の感想と、普段のお子さんの様子を一人ひとりお聞かせください」と最初におっしゃったため、保護者は順番に、上記の事柄について思うことを語る、という形で始まりました。
まさに、この時です。
まーさんがいわく言いがたい驚きと違和感を覚えたのは。
いったいワタクシが何に驚き、違和感を覚えたかと申しますと。
それは――
何と、ほとんどすべて保護者が一様に、「我が子のダメな所」を次々と、当然のように語っていかれたことです(驚)
こ、これは一体どうしたことか??
む~~~(@_@)
・・・とにかく異様です、まーさんにとっては。
しかし・・・
改めて考え直してみると、それこそが従来の日本社会、の在り方なんですよね・・・
「謙遜」という名の「ダメ自慢(?)」
考えてみたらこんなのは、今までもママ友との間で幾度となく繰り広げられてきた光景でした(^^ゞ
これをおかしいと思ってしまうまーさんの方が、ある意味ズレているのかもしれません。
やはり伝統とは、良きにつけ悪しきにつけ、そう簡単には変わらないものであり、新しい潮流に快適さと開放感を覚える者にとっては、非常に息苦しさを感じるものなのでしょう。
ところで。
この懇談会で保護者の皆さんから挙がった「我が子のダメな所」。一体どんなものがあったのか、一例を申し上げますと・・・
(ウチの子は)
○授業中の姿勢が悪い。
○宿題に率先して取り組まない。
○自主学習に工夫が足りない。
○肝心なところでケアレスミスをする。
○字が汚い。漢字が書けない。
○忘れ物が多い。
う~むむむ(@_@)
やはりここには「謙遜の美徳」、即ち「我が子を一段低く言うことで周囲の皆さんを立てよう」という日本の伝統的思考が働いているように思います。
いや、もっとあけすけに言ってしまえば、「我が子を一段低く言わないと、”横並び“社会を良しとするママ友コミュニティから逸脱し、後でどんな陰口が待っているか知れたものではない」という恐怖感に、誰もが知らぬ間に支配されている、ということなのかもしれません。
では、かくいうまーさんはこの「ダメ自慢(?)」の中で、いかなる発言をしたのか。
それは――
我が息子を――
臆面もなく「褒めて」しまったのでした~~(爆爆爆)
例えば、
○授業中の姿勢が以前に比べて良くなった。
○自主学習に一生懸命取り組んでいる。
○友達と仲良く遊び、学校での出来事を色々と報告してくれる。
などなど。
もちろん学習面でのウィークポイントについて、学校・家庭で連携して指導できればありがたい、などということも言うには言いましたが、それはあくまで「PとTのアソシエーション」という観点から発言したのであって、決して我が子を謙遜、一段低く申し上げたのではありません(誓)
さて。このようなまーさんの発言は、他の保護者の皆さんにどう受け止められたのか。
・・・ぶっちゃけ、皆さんひいて(るように見え)ました(爆)
それまで、次々に繰り出される「ウチの子こんなにダメなんです」的発言に、和やかな笑いが起こっていた教室が、まーさんの発言によって瞬時に冷ややかな(とは言い過ぎかもしれませんが)静けさに包まれ、皆さん微動だにせずワタクシの話をお聞きになっておりました(苦笑)
自分や身内を卑下することでその場を和やかにする、というこの日本独特のコミュニティ術は、よく言われることですが、欧米人には全く理解できないあり方です。
たとえば彼ら欧米人は、良く知られていることですが、我が子をこれでもかというほど褒め倒し、自慢し、その長所を積極的にアピールします。そのせいでしょうか、欧米の子ども達は、日本の子ども達に比べて自己肯定観が強く、「どうせ私なんか」とか「あまり目立ちたくない」とか、“横並び”を強く意識するような発言をほとんどしません。むしろ逆に「私はこういうことができます」「私はこのことに自信があるので前に出たいです」といった生き方がごく普通のこととして行われています。それが皆さまご存じの通り、欧米の伝統的思考法なのです。
日本人・欧米人のみならず、そのほかの地域に住む人々も含めたそれぞれの伝統的思考法は、言うまでもなく宗教・政治・地理的特性・気候・食文化などなど、様々な要因がからみあい、長い年月をかけて培われた、立派な尊重すべき思考法であるとは思います。そして当たり前ですが、「どの文化のどの思考が優れている」という相対的価値判断は出来るものではありません。それぞれの地域において「伝統として根付いてきた思考法」、ただそれだけのことです。
しかしまーさんにとって、先ほどから申し上げているこの日本における「謙遜の美徳」、これにはどうしても息苦しさを感じてしまうのです。
おそらくそれは、ワタクシにとって「謙遜」というものが、「“横並び”でなければ村八分」という相互監視体制を想起させ、また逆に「相対評価・競争原理社会の中で“横並び”から抜きん出た者だけが成功者である」という、時代遅れともいえる価値観を見せつけられるようで、心がざわざわするのだと思います。
『みんなちがって、みんないい』
とは、金子みすゞの詩だったでしょうか。
我が尊敬する岡本太郎氏は、
『他人が笑おうが笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。歌に限らず他人の判断ばかりを気にしていては 本当の人間としての責任がもてない。もし自分がヘマだったら、“ああ、おれはヘマだな”と思えばいい。もし弱い人間だったら“ああ弱いんだなあ”でいいじゃないか。』
と言っています(岡本氏の著書についての過去記事はこちら。カッコイイです!まーさんのバイブルです!)
「謙遜」という日本の伝統的美徳。
その言葉が本来持つ、美しく控えめな精神を心の内に尊重しつつも、それに縛られ型にはまることなく、自由に自分自身を生き切ってみたいと、まーさんは考える次第であります。

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