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『火花』又吉直樹~芸人とは・人間とは~

又吉直樹氏の『火花』が累計発行部数200万部を超え、話題となっています。

まーさんは、本書が芥川賞を受賞した次の日、近所の本屋にて購入いたしました。

そして昨日の朝読み終わりましたので、こうして感想などをちょっと書いてみようかなと思った次第であります。



                 ◇



ひとことで申せば、非常に読みやすい本でした。文章は簡明で分かりやすく、テーマ・構成ともとても明確で、この辺りは芥川の作風とも、ある意味似ていると言えなくもありません。






本書は、若手芸人の「僕」(徳永)と、先輩芸人の神永との交流を中心に、芸人とは何か、生きるとは何かを追求した物語であります。

芸人とは・お笑いとはどうあるべきかを常に思考する主人公「僕」は、「生来の芸人」ともいえる、純粋でストイックな先輩・神永に強いシンパシーと憧れを抱きます。しかし、当然のことではありますが、僕が神永のようになりたくとも、別の人間である以上同じ生き方ができるはずもなく、また自身も売れるためには「芸人としてやりたいこと」と「観客が求めること」との中庸を探らねばならず、その様々なジレンマの中で、日々悶々としつつ葛藤を繰り返していきます。

結局、あまりにも特殊でデカダンな生き方を貫く先輩・神永は、芸人としても生活者としても破滅の方向に向かい、一方「僕」は、観客や業界に阿ることを潔しとしなかった結果、最後は漫才コンビを解散、相方とも離れ別の道を歩むこととなります。

本書は『火花』という題名とも関係していると思いますが、花火のシーンに始まり、花火のシーンで終わります。

主人公「僕」の漫才コンビ名は「スパークス」。そして敬愛する先輩・神永のコンビ名は「あほんだら」。

10年という限定期間を、漫才師として“スパーク(火花)”のように駆け抜けた「僕」。それとは対照的に、破滅してもなお、本物の“あほんだら”として芸人魂を貫く生き方しかできない神永。

二人の道は別々の方向に分かれましたが、最後は、彼らが出会うきっかけとなった花火のシーンと共に、新たな道が開かれる余韻を残して終わります。






本書において、まーさんが特に心惹かれた文章は、主に主人公「僕」が「芸人・お笑いとは何か」について一人思考を巡らせている、あるいは神永と議論を戦わせている部分であります。こうした文章が随所にちりばめられ、やはりそこにはお笑い芸人を本職とする又吉氏の、平生の思考や苦悩が、色濃く反映されているのではないかと感じました。

太宰治が大好きだという又吉氏。私小説作家として自身の破滅的な生き様を下敷きに多くの作品を残した太宰の作風に、この辺り似ているのではないかなあと(あるいは無意識のうちに似せているのではないかなあと)考えました。

“破滅的”ということで言えば、本書に登場するもう一人の主人公・神永は、まさに破滅・デカダンを地で行く人間であり、そんな先輩・神永に憧れを抱く主人公の「僕」は、やはりある意味作者・又吉氏を濃密に投影しているのではないかと、一人考えたりしました。



                 ◇



本書には、いわゆるお笑い芸人と言われる人々が、我々観客の想像をはるかに超え、いかにギリギリのところで勝負しているか、その「勝負師」としての不安・孤独・自負・快感が、非常にストレートな形で描かれています。

まーさんはその「知られざる芸人の世界」を垣間見た面白さ、そしてそれを越え「人間としてどれだけ自分に正直に向き合うか」を見せつけられた軽い衝撃(これは自らの過ぎ去った青春を懐古する感情とも無縁ではないように思います)に、不思議な清涼感を伴った、思わず微笑みたくなるような感情を覚えました。






お笑い芸人としてのピース又吉さんのことを、実はあまりよく存じ上げないまーさんなのですが、本書を読み、俄然興味が湧いてきました。
本職としての彼の漫才がどのようなものか、もっとよく知りたいという気持ちになりました。
ぜひ今後は、TV等でチェックしてみたいと思います。






また皆さま、当ブログを見て、もしご興味を持たれたようでしたら、ぜひ本書『火花』をお読みいただければと思います。
読後感は十人十色ですので、ワタクシとは違ったご感想など、聞かせていただければ幸いです^^

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夏の朝焼け・・・火花ではありませんが・・・(笑)




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「奈々子に」――そして芥川賞作家・又吉直樹さんのエピソード

昨日。
息子の塾のテキストを開くと
そこには
まーさんの敬愛する
吉野弘の詩がありました。

「奈々子に」という詩です。

若い頃、
この詩に強い衝撃を受けたこと
ふと思い出しました――




唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。





子どもの頃
まーさんは周囲の期待に応えるべく
無意識のうちに頑張りを重ね、
結果として
自分を、本当に駄目にしてしまいました――

そんな“潰れた自分”に改めて気づかせてくれたのが
この「奈々子に」
だったのでした。




今は当時と異なり、
子を持つ親として
この詩が切実に胸に突き刺さります。

まーさんは
自分の息子に多くを期待しない自分でいたい。
過度な期待で彼を駄目にしてしまうことは
何としても避けたい。
切実にそう思っています。

しかし果たしてそれは、
本当に成し遂げられているのでしょうか。
知らず知らずのうちにワタクシは
自分の不必要な期待を
彼に押し付けていないでしょうか。

子どもはいつだって
大好きな親の期待に応えようと
お父さんお母さんを笑顔にしようと
必死に生きている。
だから、
子に対する親の過剰な期待は
けなげな彼らを疲弊させ、苦しめる――




お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう

自分があるとき
他人があり
世界がある。





そう、
ワタクシが息子にあげたいもの。
それは
≪自分を愛する心≫
それだけ――

なのに実際は、
自分の価値観に照らし
若干の期待を心の片隅に抱きつつ
それに見合わない彼の言動を
容赦なく頭から否定する
そんなことを繰り返しているのではなかろうか・・・




昨日
「奈々子に」を読み、
――この詩を読むときはいつものことですが
涙が、すっとこぼれました。




お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。





≪自分を愛する心≫――
本当に、
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
と痛感します。

しかし人間にとって本当に必要なものは、
もうこの
≪自分を愛する心≫
これだけしかない、と
今も昔も強く思うのです。




話は飛躍しますが
先日16日、芥川賞・直木賞受賞の発表があり
お笑い芸人の又吉直樹さんが
処女作『火花』で
芥川賞を受賞されたことが報じられました。

昨日の読売新聞一面のコラムは、
朝刊・夕刊とも
この又吉さんに触れての内容でした。

夕刊「よみうり寸評」では
生まれつき肺の弱かった又吉さんが
小学生の時にサッカーを始め、
体力・技術とも
他の子にひどく劣っていたにもかかわらず、
毎日一人夜遅くまで練習し続けた結果、
何年か後、強豪チームの選手として
高校総体に出場した
というエピソードが紹介されていました。

芥川賞受賞作『火花』も
執筆はいつも仕事を終えた後だったそうで、
受賞後のインタビューでも、彼は
「芸人は100でやって、
それ以外の時間に書く姿勢を崩さないようにしたい」
と語ったそうです。

又吉さんにとって
サッカー・お笑い・執筆は、
きっとどれも
やむに已まれぬ自己の衝動から起こった活動であり
それについてのたゆまぬ努力は
彼にとって苦行ではなく
むしろ快楽や自己解放につながっている、
そんな印象を受けました。




しからば。
人間にとって「何かをなしとげる」「夢を持つ」行為、
例えば又吉さんのように
サッカー・お笑い・執筆に邁進する行為とは
一体何を意味するのでしょうか。

ここで先の
≪自分を愛する心≫の話に繋がって来るのですが、
自分を愛するためには
自分を大切に思い
自分の心に従って生き
自分を楽しませ
自分の喜びを大事にし
自分の全てを受け入れる――

そんなことが絶対不可欠でありましょう。

しかしながら世間一般において
「何かをなしとげる」「夢を持つ」
という言葉が使われる時、
そこには本来
夢の成就に付随しているはずの
≪自分を愛する心≫
例えば“純粋に自分を楽しませる”
といった感覚はあまり存在せず、むしろ
“苦しみを伴うような苦い”感覚が
背後に張り付いているように感じてしまうのは、
ワタクシだけでしょうか・・・?

つまり、又吉さんのように
何かやむに已まれぬ衝動に突き動かされて
必然の結果として努力をし続ける――
これは確かに
≪自分を愛する心≫
に深いところで通じるように思います。

が、よく大人が子どもに要求しがちな
「何かをなしとげなさい」「夢を持ちなさい」
というお定まりの題目には、
何というか
それとは違う苦行的なものが潜んでいるように
思われてならないのです。

この時大人が言う「夢の成就」とは
つまり「立身出世」的な意味も含んでいるのであって、
これを陰に陽に子ども達に刷り込み、期待をかけることは、
まさしく
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
自分を駄目にしてしまう

ことそのものではないかと、思うのです。




そしてこうした事例は、
何も子ども達に限ったことではありません。
我々大人もどうかすると
「夢を持たねば」「何かをなしとげねば」
という焦燥感を抱くことがあるのでは、
というのがワタクシの考えです。

それは当然のことながら、
幼少時からの刷り込み、つまり
「生まれたからには夢を成就させ、立身出世すべき」
といった暗黙の価値観が作用していると思います。

「大きな夢を持っていないこと」
「立身出世できていないこと」が
まるで自分の駄目さ加減の証拠でもあるかのように、
自己否定し続ける大人たち。

実はまーさんもこの考えの中に、
未だ片足を突っ込んでいる感は否めません。
情けないことですが・・・

結論から言えば、
「そんな≪自分を愛する心≫から程遠い感情は
一刻も早く捨て去るべき」
であり、
これからを生きる子どもたちにも
「≪自分を愛する心≫から乖離した夢など
もつ必要はない」
と強く言いたいです。

「夢」とは自分が楽しくなるためのツール。
それが人によっては
「サッカー選手になりたい!」
かもしれないし、あるいは
「美味しいスイーツを心ゆくまで食べ歩きたい!」
かもしれません。

後者は明らかに
「立身出世」の概念からはかけ離れていますが、
そんなことはどうでもよろしい!!

ようは自分の心に素直に向き合い、
やりたいことは何か。
自分はどう生きたいか。
そのためには何をどう行動したらよいか。

これをひたすら考え(あるいは思いついたらすぐ)
実行に移すことが肝要ではないかと
まーさんは思うのです。




こう書いてくると皆さま、
もうお気づきかと思いますが
まーさんは常に
「自分が何をしたいのか」
「自分には成し遂げたい夢があるのか」
と考えあぐね、
時として行き場のない
もやもやした焦燥感に駆られているのです・・・

本当に修行不足の自分を露呈するようで
お恥ずかしいかぎりですが・・・

ですからワタクシ、常に刹那を意識し、
何事にもとらわれず、
今一瞬の己の感情に従い行動することを
一つの行動指針にしているのでありますが、
やはりこう、何か物足りない。
まだ「やりきってる感」が無いと申しましょうか・・・

多分、作家の宇野千代さんのように
「思い立ったらもう体が動いちゃってるのよ~~」
って、後先考えず行動していたら
そんな焦燥感にさいなまれることも
無いのかもしれません。

やはり
「家族がいるから」とか
「先立つものが・・・」とか
「常識的に見て」とか
さまざまな呪縛によって真の解放には至っていない、
というのが本当のところかもしれません。




皆さまはいかがでしょうか・・・

人生は一度きり。
残りの人生、
どう生きてどう死ぬか――
まーさんにとってこれが
目下の最重要課題となっているのであります。


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もう駄目にゃん・・・暑いにゃん・・・
アタシの好きにさせてちょうだい・・・





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まさかの”生れてすみません”(再び)

皆さまこんにちは。
今日の関東地方は太陽がギラギラです(汗)



ところで。
まーさん宅のご不浄(^^ゞには、以前お伝えした通り
「二十四節気・七十二候カレンダー」がかかっております。
ここには本日6月19日が、
太宰治の「桜桃忌」であることも記載されています。

このカレンダー、実に親切&優れモノでして、
有名な作家や絵師、歌人・俳人の忌日なども
欄外に載せられているのです。

因みにカレンダーによりますと、
太宰の忌日は「桜桃忌」とは別で6月13日。
更に旧6月13日は、
松尾芭蕉の門弟である杉山杉風の忌日でもあるとのこと。

杉風と言って思い出されるのが女優の山口智子さん。
彼女は何と、杉風の子孫に当たります。
(杉山杉風は、江戸で「鯉屋」という
幕府御用達の魚問屋を営む名士で、
松尾芭蕉の経済的庇護者でもありました。
彼の子孫が後に栃木県栃木市にて旅館を開業し、
老舗旅館「ホテル鯉保」として
平成17年まで営業しておりました。
その旅館の長女が、山口智子さんというわけです)。

前置きが少々長くなりましたが、本日は「桜桃忌」。
ファンにとっては太宰治を偲ぶ一日です。
が、皆さまご存じだったでしょうか?
あの太宰の有名な言葉「生れてすみません」には、
衝撃の秘密が隠されていることを・・!



ということで、
ここからは昨年の記事を加筆修正し、転載したいと思います。
皆さまの感想をお待ちしております(笑)




*********************************




今年もやってきました。
作家太宰治の、誕生日でもあり命日でもある「桜桃忌」。
この日、全国のファンが
東京三鷹の墓所・禅林寺を訪れるそうです。

まーさんは、まだ一度も行ったことがありませんが、
実は高校生の頃、かなりコアな太宰ファンでした。
図書館の全集を、ひそかに読破しちゃっていました・・・(汗)

太宰といえば『人間失格』でしょうか。
イヤ、学校の教科書にも載っている
『走れメロス』が馴染み深いのでしょうか。


太宰について今日は一つ、
大衝撃を受けた関連本をご紹介します。
『人間太宰治』(山岸外史著 ちくま文庫)です。

太宰と交友の深かった文芸評論家・山岸外史氏が、
彼との関わりを微細に描いた本です。
あまりにも赤裸々な交遊録(汗)に
驚いたり考え込んだり・・・(笑)

しかし――
とりわけ驚いたのは、
かの有名な“生れてすみません”
についての事実!!
『二十世紀旗手』の副題として付けられたこの言葉は、
実は山岸氏の従兄弟が作った詩を、
太宰が盗用したのだというのです。


え~~~?ウソでしょ!
太宰=“生れてすみません”
くらい有名なあの言葉が、まさかの盗用??
衝撃でした。これは真実なのか?
いや山岸氏もウソは書かないだろう。
とすると、これは本当の話・・・
実に何というか・・・。とにかく驚きです。
こういう所も太宰の魅力のひとつ・・・なのでしようか。

お気の毒なことに、この山岸氏の従兄弟は
自分の命同様に大切にしていた言葉を
太宰に奪われ、
精神的なダメージのためか
後に行方不明になってしまったそうです・・・


ともかく。
太宰の魅力と真実が余すところなく描かれている
『人間太宰治』
山岸氏のうますぎる文章も、一読の価値ありです。




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西脇順三郎「旅人」に思う

今朝は息子のデスクに座り、
ひとり窓から舞い込む五月の風に吹かれていると、
不意に、とある詩を思い出しました。
西脇順三郎「旅人」(『ambarvalia』)です。



  旅人

汝カンシャクもちの旅人よ
汝の糞は流れて、ヒベルニヤの海
北海、アトランチス、地中海を汚した
汝は汝の村へ帰れ
郷里の崖を祝福せよ
その裸の土は汝の夜明だ
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶら下がつてゐる


(『西脇順三郎詩集』那珂太郎編 岩波文庫より)



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
(1991/11/18)
西脇 順三郎

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高校生の頃、この詩に衝撃を受けたまーさんは、
それ以来西脇順三郎の詩を、
折に触れて読むようになりました。



人間の感覚とは不思議なものです。

五月のそよ風。
ふと鼻先に漂う夕餉の匂い。
街で何気なく聴いた音楽。
散歩途中に見つけた草花。

こんなものが我々の脳裏に
忘れかけていた遠い昔の出来事を
まざまざと思い出させるのです。
まるで白昼夢のように、
その折の空気感を伴って――



今日の「旅人」はまさにそんな感じでした。



何者にもなれず、しかし何者かにならねばと
深い焦燥感にさいなまれていた高校時代。
西脇順三郎の詩は、
現実逃避、破壊衝動、冒険への憧れに揺れる
まーさんの脆く崩れそうな心の琴線に、
ダイレクトに響いた文学だったのでした。

国語と歴史以外は興味を持てなかった授業中、
ふと窓から吹き込んだ涼しい風――
そんな高校時代のあるひと時を思い出させる、
今朝のそよ風でした。



突如として思い出した西脇順三郎。
旧知の人に会ったような嬉しさを覚え、
思わずネットで検索をしてみると、
何とまーさんの敬愛する
松岡正剛氏「松岡正剛の千夜千冊~意表篇 0784夜~」
がヒットしました。
ここに出て来る
『雑談の夜明け』(西脇順三郎 講談社学術文庫)
という本。
松岡氏の解説が格別に面白かったので、
さっそく図書館にて先程借りてきました(笑)

ご興味のある方は是非お読みいただければと思います。
また「松岡正剛の千夜千冊」(←クリックして下さい)
は最高に面白いので、
本好きの方、
是非ご一読いただければと思う次第であります。




風の匂いにふと昔を思い出すことありませんか・・・
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まーさん超訳『竹取物語』~大伴の大納言と龍の頸の玉③~

大雪のバレンタインデー・・・

すっかり日本の風物として定着したこの行事。
まーさんは昨日、夫と息子にチョコレートを買い求めました。
ついでに美味しそうなザッハトルテも買いました。
(こちらは3人分・・・笑)

これが息子に買ったチョコレート。
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仮面ライダーであります(笑)
ガシャポンのようにつまみを回すと、
中からまるいチョコレートが一つ出てきます。
息子は「面白~い!」と大喜びで何度も何度もつまみをクルリ。

夫には某「帝●ホテル」の大人なチョコレートを買いましたが、
今日は会社の方々と飲み会とのことで(この雪の中・・・汗)、
帰りが遅くなるようです。
明日、渡すことになるのかな~~(-_-;)



               ◇



まーさん超訳『竹取物語』~大伴の大納言と龍の頸の玉③~


《あらすじ》
その後三・四日の間、良い方向への風が吹き、船は陸へと吹き寄せられた。梶取が、たどり着いた浜を見ると、それは播磨の明石の浜であった。しかし大納言は『南海の浜に吹き寄せられたのではないか・・・』と思い、絶望して喘ぎながら横たわっていた。乗船していた家来達は国府に告げ、播磨の国司がお見舞いにやって来た。しかし大納言は起き上がることができず、船底に横たわったままだった。松原に御筵(みむしろ)を敷き、大納言をそこに下ろす。その時になってようやく『ここは南海ではない!』と気づき、やっとのことで起き上がったその様子を見ると、風の病(神経疾患・腹の病気)がひどくなった人のようで、腹はたいそう膨れ、目は李(すもも)を二つ付けたように赤くなっていた。これを見た国司は、思わず苦笑してしまう・・・

大納言は国府に命じて輿(こし)を作らせ、うめきつつ荷われて都の邸に戻った。それをどこで聞きつけたのか、龍の頸を取りに行った家来達が戻って来て、邸に参上した。そして申すことには、
「私共は、龍の頸の玉を取ることが出来ませんでしたので、こちらの御殿にも参ることが叶わずにいました。しかし今、大納言様も玉を取る難しさをお分かりになられたと思い、これならば罰せられることもあるまいと戻ってまいりました。」

大納言は起き上がって言った。
「お前達、よくぞ龍の頸の玉を持って来なかった!龍は鳴る雷の類であったのだ。その玉を取ろうとして、大勢の人々が殺されそうになった――もしこれで龍を捕えていたら、わしはあっさり殺されていただろう。お前達、よく龍を捕えないでいてくれた。あの、かぐや姫という大悪人の奴めが我らを殺そうとしたのだ。今後はあやつの邸の近くすら通るまい。お前達もあの辺りを歩くでない。」
と言って、少しばかり残っていた財産を、龍の頸を取らなかった家来達に、褒美として与えたのだった。



これを聞いて、離縁なさった元の北の方(妻)は、

はらわたがよじれて切れるほどにお笑いになる。

大納言が美しい糸を葺かせて作った建物は、

鳶や鴉(とびやからす)が、巣を作るために皆くわえて持って行ってしまった。


世間の人は噂した。

「大伴の大納言は、龍の頸の玉を取っていらっしゃったのか。」

「いや、それは出来なかったらしい。そうではなく、御眼(みまなこ)二つに、

李のような玉を二つ付けてお戻りになったのだ。」

「ああ、〈その李は〉食べがたい。」

と言ったことから、世間の常識から外れたことを

「あな、堪へがた(ああ、どうにも我慢できない)」と言い始めたとか。





次回に続きます。



参考文献
*『日本古典文学全集8 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』(小学館)
*『岩波古語辞典』(大野晋 佐竹昭広 前田金五郎 編)




ある意味幸せな人、大納言・・・(呆)
↓((+_+))↓ 
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プロフィール

まーさん

Author:まーさん
息子と夫と私、考え方も行動もてんでバラバラな3人で暮らしています(笑)でも仲良しです。
音楽、映画、読書が好き。芸術鑑賞、外国語、旅行も好きです。ゆ~る・じゃぱんでは、日本大好きまーさんが暮らしのに漂う日本の香り・日本文化をゆる~く綴っていきます。

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