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万華鏡の美

今日はハロウィン!!

午前中は0歳~3歳のチビッ子&ママ達と
ハロウィンパーティー☆彡
午後は息子の友達が遊びに来たので、
みんなで仮装して、
“Trick or Treat” “はい、お菓子どうぞ~~”
をやりました~~!

とっても楽しかったです^^




さて先日のことですが、息子の小学校で学年行事として
「親子で万華鏡づくり」
が行われました。

学校で用意してくれた万華鏡キットを使って、親子で手作りを楽しむ、
という企画です。

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キットの表紙。このような民芸調の万華鏡が出来ます。





万華鏡というと、日本の古典的な玩具、のイメージを持っていましたが、
よく考えてみるとこれ、舶来ものですよね。

Wikipediaで「万華鏡」を調べてみると、その歴史は
ディヴィッド・ブリュースターが偏光の実験の途中で発明し、1817年に特許を取得した。初期のデザインは、一端に一組の鏡を置いた筒からできており、他端には半透明の円盤、その間にビーズを置いたものである。初期には科学における道具として発明されたものが、玩具として急速に複製された。日本には江戸時代の文化文政時代の1819年には既に輸入され、「紅毛渡り更紗眼鏡」などと呼ばれて大阪ではその偽物が出回るほどの人気を博した。
とありました。

ともかく万華鏡づくり、
まーさんはそれほど期待しないで学校に行ったのですが、
出来上がったものを覗いてみてびっくり!!
こんなに美しいものなのですか、万華鏡って・・・

もちろんこれまでも万華鏡を手に取って覗いたことはありました。
しかし、この年になって改めて鑑賞してみると、
そこには何ともいえない魅力的な世界が広がっていたのです。

筒をくるくる回すと、光の鏡の中で美しい模様が
次々と現れては消えていきます。
桜花のようなモチーフ、色とりどりの幾何学模様、青い光の輪、
小さな花びらの連続・・・
次はどんな模様が出てくるのか、と期待がつのり、
いつまでもいつまでも筒を回す手が止められません。

息子もすごく喜んで、
「オレの万華鏡、すごくきれいにできた~~」
と何度も言って、いつまでも眺めておりました。

今回の万華鏡キットには、覗いた時に模様となる部分の材料
(セロファン・モール・おはじき)がセットされていました。
が、それ以外にも、入れたい材料があったら自宅から持参してもいい
ということだったので、
まーさんはキラキラビーズやスパンコールを持っていきました。
それもいくつか入れたからでしょうか、
模様は複雑になり、色や形も華やかになって、
いつまでも見飽きない素敵な万華鏡が出来ました。
息子は、友だちや先生にも見せて、
「先生が、すごくきれいにできましたね、って褒めてくれたよ」
とご満悦でした^^




こうして書いている今も、ついつい件の万華鏡を手に取って眺めてしまいます。
綺麗です。心が癒されます。
万華鏡。ただくるくる回したり振ったりして模様を眺めるという、
実に単純な玩具なのですが、そこには無限に繰り返される美の世界が広がっており、
その“永遠の秩序”に心が吸い寄せられて目を離すことが出来なくなります。





皆さまも機会がありましたら、万華鏡、手にとってご覧ください。
きっとしばしの、心の休息を得られることと思います・・・

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出来上がった万華鏡。学校の体育館で撮影しました^^



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長篠古戦場&豊川稲荷 2

昨日はちょっと早いハロウィンパーティー^^
帰宅が遅くなりました~~
子供達、大いに盛り上がり、
大人もとても楽しいひと時を過ごしました!


        ◇


さて本日は、旅行二日目の様子を
お伝えしたいと思います。




20日の朝、雨がしとしと降っています。

宿泊した旅館では、
なんと!トンビの餌付けをしており、
窓の外には
見たこともないような数のトンビが、
「ぴ~ひょろろろろ~~~」
空を悠々と滑空しております。
その声で、目が覚めました。

面白いのは、司令塔のトンビが一羽いて、
ひときわ高い木のてっぺんに
止まっていることです。
宿の方の説明によると、
司令塔が動くと他のトンビも動き、
何やら皆が、指示に従って動いているとのことです。

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滑空するトンビの群れ




トンビの声で目を覚ましたまーさんは、
起きるとすぐ温泉に向かいました。
朝の温泉、
板敷川と呼ばれる岩盤の続く川に面しており、
トンビもすぐ近くまで飛んできて、
野趣あふれる風景です。




温泉の後、ゆっくり朝食をとり、
まーさん家族は、宿を後にしました。

そして、この日最初の観光。
前日時間の関係で見学しなかった
「長篠城址史跡保存館」です。
館内には、槍や甲冑、文献と共に、
戦いの様子が分かる模型や説明書きなどが
展示されています。
武田軍に捕らえられ磔となった烈士、
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)磔刑の図もあり、
これを見たまーさんは、昔の日本人の勇気と胆力に、
ただひたすら感じ入ったのでした。

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保存館の回廊から撮りました。




この後車で豊川稲荷へと向かいました。
朝は小雨でしたが、次第に雨脚は強くなり、
稲荷に到着したころには
土砂降りと言ってもいい雨になっておりました(;_;)

ちょうどお昼時だったので、名物のいなり寿司を
いただこうと思い、門前で見つけた
“いなり寿司食べ放題”のお店に入りました(笑)

75分で、いなり寿司とうどん、お総菜、スイーツが
食べ放題です。
ビュッフェとか食べ放題が大好きな息子は、
大喜びで食べまくっていました。
よくそんなに入るなあ、という程・・・(苦笑)
とか言いながら、
まーさんも、これ以上入らないというまで
お寿司をいただいたのでした(^^ゞ
何せ、創作いなりが沢山あり
(八丁味噌、一味、柚子、レモン、大葉、生姜、
竹炭、桜などの味が、おあげにしみ込んでいる)、
どれもこれも食べたくなってしまうのです。
75分を前に三人ともお腹いっぱいになり、
ようやく豊川稲荷のお参りとなりました(笑)

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創作いなり。まーさんは桜味が気に入りました。




豊川稲荷。
広い敷地に、荘厳な建物がずらり。圧倒されます。
「稲荷」と言いますと、我々は神社を想像しますが、
こちらは曹洞宗のお寺です。
僧侶がたくさんいらっしゃいます。
よく通る美しい声で、ご祈祷をなさっていました。

土砂降りの雨の中、
お参りもなかなか難しい状況でしたが、
一通り建物を回り、ひときわ目を引く
「霊狐塚」へと向かいました。
塚へ向かう途中の道には、無数の旗がたてられ、
所々に霊狐像(稲荷神社で見るお狐様の像と
同様のものか)があります。
くねくねとした道をたどってゆくと、
突然ばあーっと視界が開けて無数の霊狐像が
お祀りされた「霊狐塚」があらわれます。
雨の中、大小様々なお狐様が鎮座ましますお姿、
いうに言われぬ霊気を感じます。
とても、写真を撮る気持ちにはなれません。
傘を差しながらで失礼ではありますが、
お参りをし、この「霊狐塚」をあとにしました。
雨が強かったこともあり、まーさんはここ豊川稲荷では
一枚も写真を撮りませんでした。
皆さまに、あの雰囲気をお伝えできないのが残念・・・
ですので、ご参考までに豊川稲荷のホームページを
ご覧いただければと思います。



この後は、門前でお土産を買いました。
名物のおまんじゅうや、小物などを
記念に買い求めました。
動物のぬいぐるみが大好きな息子は、
ここで絶対に「狐のぬいぐるみ」を欲しがる!
と思っていたのですが、珍しくそう言わず、
「小判(おもちゃ)が欲しい!!」と言って
買っておりました。
「お金持ちになれる小判」と刻印されていました。
やっぱりね・・・
お金大好き息子さまですから・・・(^^ゞ

こうして観光は終わり、駅へと向かいました。
そして駅でもまーさん家族、
大量にお土産を買いました~~(汗)
まーさんは八丁味噌饅頭と名物のちくわ、
夫は仕事仲間(欧米人多し)に豊橋名物チョコバー、
息子はご当地限定スナック(をPasmoで)購入。
大荷物を抱えてお茶した後(汗)、
新幹線にてようやく帰途につきました。




あいにくのお天気でしたが、テーマ性のある歴史の旅、
とても楽しかったです^^
名古屋・三河、まだまだ見どころ(食べどころ??)
いっぱいですので、
ぜひ再び、訪れてみたいと考えております!!




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長篠古戦場&豊川稲荷

皆様こんにちは。

10月19日と20日、まーさん家族は小旅行に出かけました。
夫の企画「長篠古戦場&豊川稲荷ツアー」
でございます(笑)

戦国時代(特に武田信玄)が大好きな夫の、
趣味丸出しの旅行です(^^ゞ
豊川稲荷は、戦国時代とは関係ありませんが、
まーさんの話(昔友人とここの宿坊に泊まった)
を聞いた夫が興味を持ち、
古戦場とセットでお参りすることにしたようです。

大量の鉄砲を用いたとして有名な「長篠の戦い」
日本三大稲荷である霊験あらたかな「豊川稲荷」
本日は、この二つを巡る旅行の様子を、
写真と共にご紹介したいと思います。




まずは東京駅から新幹線で、豊橋駅に降り立ちました。
ここでレンタカーを借り、長篠古戦場に行く予定でしたが、
その前にちょうど昼食時・・・
あらかじめ調べておいた、名物「菜めし田楽」を食すべく、
市電に乗って老舗「きく宗」へと向かいました。
「きく宗」はガイドブックによると、
江戸時代より約200年の歴史を持つ、菜めし田楽の老舗。
店は、構えも店内も非常に風情があり、とても雰囲気のあるお店です。
菜めし田楽定食を頼んで、しばし寛いでいると、運ばれてきました。
美味しそうな定食。

これです。
IMG_0016_convert_20131022153832.jpg

菜めしとは、刻んだ大根葉をご飯に混ぜたもので、
田楽は、香ばしく焼いた豆腐の上に、
八丁味噌タレと辛子が乗っています。

田楽に辛子をつけて食べるのは、まーさんお初でした。
アクセントになってとても美味しかったです。
あっさりした菜飯と濃い味の田楽がとてもよく合い、
「江戸時代の人もこれを食べたのかなあ」
などと思いつつ、幸せなひと時を過ごしました。


続いてレンタカーで長篠古戦場へ。小雨がぱらつく曇天でしたが、
道も混んでおらずスイスイと走ります。
とその時、道路上に看板が。
<武田信玄 最後の城攻め(云々・・) 野田城址>
車で走りながら見たので、
ちょっと読み取れないところもありましたが(^^ゞ
そんなことが書いてありました。
「ねえねえ、野田城址ってあったよ」
と運転中の夫に伝えると、即座に反応(@_@)
Uターンして、野田城址へと向かったのでした。


お城の入り口には、「野田城址」と「野田の戦い」について、
説明の看板がありましたが、雨のため、
ゆっくり読むことも写真を撮ることも出来ませんでした(;_;)
しかし、さすが戦国・武田オタクの夫は、
この「野田の戦い」についても詳しくて、
色々うんちくを述べていましたが、
まーさん、複雑すぎてよく分かりませんでした・・・(汗)
城の跡である山の中に入ってみると、空堀の跡などが残っています。
なぜか小さな「野田城稲荷」の祠がたてられていたので、
手を合わせてから記念に写真を撮ってみましたが、
写った写真は白くぼやけてブレています。
そのあと続けて写真を撮ろうとしたのですが、
どうしたわけかフリーズ・・・
「買い替えたばかりのiPhoneよ、
まさか、もう壊れたのではなかろうな!!」
と心の中で叫びましたが全く動かず・・・
怖くなったので、電源を切って、
車にそそくさと戻りました(大汗)
というわけで、「野田城址」の写真はありません・・・
(その後電源を入れ直しましたら回復しました。良かった)
軍事的に非常に重要かつ、武田軍と籠城戦も行ったぐらいの
野田城ですから、
この地には戦国人の様々な思いが、今も渦巻いているのでしょう・・・
そんな気がいたしました。


そしていよいよ「長篠古戦場」です。
まずは設楽原歴史資料館で、大量の火縄銃を見学しました。
実際に火縄銃を手で持てるコーナーもあり、
息子は喜んで、ずっと持ったまま構えて遊んでおりました(^^ゞ
まーさんも持ってみましたが、とても重たかったです。
その後、資料館近くに復元された、馬防柵(戦国時代最強と恐れられた
武田騎馬軍団に対抗するため、織田信長が考案した)を見学し、
長篠城址へと車を走らせました。
この日は時間がなかったので、「長篠城址史跡保存館」は
翌日見学することにして、
とりあえず城址の各所を見て回ることにしました。

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こうして古戦場を眺めると、当時の面影や人々の思いが
そこはかとなく感じられ、
遠い日本の戦いに、思いを馳せる雨の夕刻となりました。


というわけで、この日の観光はおしまい。
宿のある、湯谷温泉へと向かいます。
夜は、少し塩気の感じられる、素晴らしい泉質の温泉と、
野趣あふれるお食事を堪能し、眠りにつきました。

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この後、鮎塩焼き・松茸の天ぷら・松茸ご飯(お代わり自由!)・
松茸土瓶蒸し等が出て、まさに松茸づくし!!
香りを存分に味わいました^^


と、つらつらと書いているうちに長くなってしまいましたので(汗)
続きはまた次回。



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『100分de名著 古事記 第四回「古事記の正体とは」』

皆さま、ご無沙汰しております(汗)

すっかり更新が遅くなってしまいました。
目の回るような忙しさ。
実際に目も回って(@_@)
ふらふらしながら暮らしておりました~~
お天気が安定しないせいでしょうか??


             ◇


では最終回、『100分de名著 古事記 第四回「古事記の正体とは」』に参りたいと思います。




オホクニヌシの国譲りが無事に行われ、アマテラスの子・ニニギノミコトが地上を治めるため降り立ったのは、「日向の国」でした。


<日向神話>
ニニギノミコトは沢山の供を連れ、都と定めるにふさわしい土地である、日向・高千穂峰に降り立つ。
そこで彼は美しいコノハナノサクヤビメと出会い、結婚を申し込んだ。ところがどうしたことか、ヒメの父はコノハナノサクヤビメと一緒に、姉のイワナガヒメも共につけて寄こしたのである。ニニギノミコトは、妹と違い非常に醜い姉を父の元へと送り返した。すると、父・山ノ神は怒って「美しい妹と醜い姉を共に差し出したのには相応の理由があったからなのだ。姉だけを送り返してくるとは。この行為によってお前は永遠の命をなくすことになるだろう。」と言う。
その後、コノハナサクヤビメは懐妊するが、一度の契りで懐妊した姫に対し、ニニギノミコトはあろうことか「それは本当に私の子か?」と疑いの目を向ける。怒ったヒメは自らの潔白を証明するために、産屋に火を放ち「この状態で無事に子供が生まれてきたならば、それはまさしくあなたの子(神の子)でしょう。」と言って、燃え盛る火の中でお産をする。そうして生まれたのがホデリ・ホヲリの二人の兄弟である。



この話はいわゆる「天孫降臨」のお話です。三浦氏によれば、当時は子孫繁栄のために複数の姉妹と結婚するのは普通のことでした。ところがニニギノミコトは、美しい妹だけを選んで、醜い姉を返してしまうのです。
姉→岩石(永遠を象徴)
妹→木の花(美を象徴)
「永遠を拒否して美を選ぶ」ここに、人間の宿命(寿命)が生まれた
のだと、三浦氏は言われます。ニニギノミコトは神として地上に降り立ちましたが、「美しいけれども散ってしまう花」だけを選び、そのために人間には寿命が与えられたという起源説が、この話なのだというのです。
また氏は、
「「天孫降臨」はなぜ日向という辺境の地なのか。なぜヤマトに最初から降りてこないのか」
という司会者の質問に、
「建国神話は、辺境の地にまず降り立って、そこから中心へ入ってきた、と語られることが多い。この話は、苦難を経て建国がなされたという典型的なパターン」
であると述べておられました。




<ホデリ・ホヲリの話>
コノハナサクヤビメから生まれた兄ホデリ・弟ホヲリはそれぞれホデリ=海、ホヲリ=山で狩りを行う。ある時、弟ホヲリは兄に「それぞれの道具を交換して狩りをしよう。」と持ち掛ける。そして交換した道具で狩りをするも、なかなかうまくいかない。そのうちホヲリは、兄の大事な狩り道具である釣り針をなくしてしまう。代わりの物を作って何度も謝ったが、兄はどうしても許してくれない。そこに塩の神様がやってきて、ホヲリに「海の神がいるワタツミの宮に行けば、良い方法を教えてくれるだろう。」と言い、ホヲリを海へと送り出す。
ワタツミの宮に到着したホヲリは、海の神ワタツミの娘である、美しいトヨタマビメを妻にもらい、楽しい日々を送り、瞬く間に三年が過ぎた。
しかし三年が経ってホヲリはここに来た理由を思い出し、ワタツミに事情を話した。そこでワタツミは海の魚たちを集め、ホデリの釣り針を探し出し、更にはその釣り針を兄に返す時の呪文を教えてくれた。
こうして送り出されたホヲリは、呪文を唱えながら兄に釣り針を返すと、その釣り針には魚がかからなくなり、困り果てた兄ホデリはとうとう最後には「今後はホヲリのために仕える。」を誓いを立てたのだった。



この話が有名な海幸彦(ホデリ)・山幸彦(ホヲリ)のお話です。
三浦氏は、「ホヲリはニニギノミコト(神の力を持って降臨)とコノハナノサクヤビメ(山の神)との間に生まれ、トヨタマビメ(海の神)と結婚する。つまり、神の血筋、陸の力、海の力を手に入れて万能になったのがホヲリ(海幸彦)なのだ」と言われます。だから、ホヲリが地上の王者になるのは当然であり、また、ホヲリとトヨタマビメの子は、カムヤマトイハレビコ(初代・神武天皇)であるから、ホヲリが正当の系譜として兄に勝つのは、最初から決まっていること(兄は最初から悪役をふられている)、と仰っていました。


「海の彼方に出て行って力をつけて帰って来る」というホヲリの話は、「高貴な者が辺境の地へ行き、新たな力をつけて帰って来る」という「貴種流離譚」の典型だと、まーさんは思いました。






<ヤマトタケルの話>
第12代景行天皇の皇子・オウス(ヤマトタケル)は、父の寵姫を奪った兄を、素手でむごたらしく殺してしまう。父のためにやったことだったが、それを機に、父はオウスを恐れるようになる。そして、身辺から彼を遠ざけるため、熊襲討伐へと向かわせる。女装して熊襲兄弟を討ち取ったオウスは、ヤマトタケルの名を賜る。討伐から帰ったヤマトタケルは、再び父・景行天皇の命により、蝦夷討伐へと向かわせられる。ここで彼は、初めて自分が父に疎まれていることに気づき、嘆き悲しむ。それでもヤマトタケルは蝦夷討伐を果たし、その帰途、命を落としてしまう。彼の魂は白鳥となって、空の彼方へと飛び去ったのである。



日本人に人気の高い「ヤマトタケル」の話。
三浦氏によれば、その人気の秘密は、ヤマトタケルの持つ性質(非常に強いが、父に疎まれるというかげを持ち、しかしながらそれを補うように支える女性達(叔母・妻)がいる)が大きく関係しているのではないかということでした。そしてこれは、似たような境遇を持つ「源義経人気」にも相通じるものがあると仰っていました。

また三浦氏は、ヤマトタケルノミコト説話を『古事記』と『日本書紀』で比較し、次のように図式化しておられました。

『古事記』    ←正反対→    『日本書紀』(国の正史)
名:倭建命             名:日本武尊
・異端               ・正統
・暴力的              ・忠実な息子
・父親に疎まれる。         ・父親に信頼される。


『日本書紀』が「正史として、天皇の素晴らしさを語るためのもの」であるのに対し、『古事記』は「敗れていった人物にスポットライトを当てるためのもの」である。つまり、同じ話が、語り手によってこうも違う様相を呈してくるのであり、物語として見るならば、断然『古事記』のほうが面白い、と三浦氏は言っておられました。




<『古事記』とは?―まとめ―>
○『古事記』=敗者の側から語られた物語であり、
 敗者への共感が基本的なスタンスとしてある。そこが面白い。
○『古事記』に込められた思い
 歴史とは、一つの出来事であっても、誰が見るかによって変わる。
 歴史は一つではない。
○大和朝廷の語る、正統な歴史ではない『古事記』のような語りに、
 本当は真実が埋め込まれているのかもしれない。
○「語り」とは、“栄光”を語るためだけではない、
 ”敗者のための物語”を語るためにも存在する。
 「死んだ人たちの魂を慰める「鎮魂の物語」を語ること」
 これが、語りの役割である。





三浦氏の分析する『古事記』を通して、まーさんは

○「なる」という動詞に象徴される、絶対神のいない日本の特徴
○縄文(自然)→弥生(人工)への、神話での描かれ方
○「日本海文化圏」という考え方
○『古事記』の持つ二つの世界観
(水平的世界観【縄文的・南方的】と垂直的世界観【弥生的・北方的】)
 の混在と、日本(人)の在り方の関係性
○歴史は一つではない。
(それは「敗者のための物語」として語られた『古事記』に、如実に表れている)

など、今後「日本」を考える上で、思考の深化に役立つであろう
見解を手に入れることが出来ました。





今回の「100分de名著 古事記」で得た知識を一つの参考にし
ながら、まーさんは更に「日本及び日本人とは何か」について、
考えていきたいと思います。




四回にわたる長文をお読みいただき、
ありがとうございました!!


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『100分de名著 古事記 第三回「出雲神話という謎」』

10月だというのに、毎日夏のような暑さが続いております。
皆さま、体調など崩されておりませんでしょうか。

まーさんは、だるい体に鞭打って、朝からチャイコフスキーの「1812年」(小澤征爾&ベルリンフィル)を聴き、自分を奮い立たせていましたが(苦笑)、遂に午後は眠気に勝てず、昼寝をしてしまいました~~(沈)

・・・やはりちょっと疲れ気味のようです(^^ゞ


             ◇


さて今日は『100分de名著 古事記 第三回 「出雲神話という謎」』について綴ってまいります。

スサノヲの物語の後、いわゆる「出雲神話」と呼ばれる物語が始まります。
歴史の表舞台から消えてしまった古代日本のもう一つの姿・出雲の強大な勢力を示唆する物語です。

三浦氏によれば、『古事記』の神話の三分の一が「出雲神話」であり、その意味では『古事記』=出雲を中心とした神話であるといえるとのことです。
「出雲神話」ではオホクニヌシ(大国主)が主人公となっています。このオホクニヌシとはどのような神なのか。以下にまとめてみます。
○スサノヲ(とクシナダヒメ)から7代目の子孫
○幼少期はオホナムヂ(=偉大なる大地の男)と呼ばれる。
○やがて大地を治めるオホクニヌシ(=偉大なる国の主)となる。

この後、いくつかのオホクニヌシ神話が紹介され、三浦氏の解説が付けられます。





<因幡の白兎>
80に余る兄弟のいるオホナムヂ(後のオホクニヌシ)は、美しいと評判の「因幡のヤガミヒメ」を娶りたいという兄弟たちと共に、一行の最後尾に付き、荷物持ちとして因幡へと向かう。その途中、皮を剥がれて苦しむウサギに出会う。先にウサギを見かけた兄たちは「塩水で洗い日に当てればよくなる」と嘘を教え、それを実行したウサギは、かえってつらい痛みに苦しむことになる。後からやって来たオホナムヂはその様子を見て同情し、ウサギの体を真水で洗い、その上にガマノホワタをしいて寝かせてあげる。すると、不思議なことに、ウサギの怪我は治ってしまう。喜んだウサギはこう予言する。「ヤガミヒメ様が夫として選ぶのは、兄たちではなくあなたでしょう。」果たして予言は的中し、ヤガミヒメはオホナムヂとの結婚を望む。兄たちはオホナムヂをやっかみ様々な手を使って彼を殺そうとするが、母神様の助言によって「木の国」へと逃げのびる。



この神話は、二つのことを表していると三浦氏は言われます。一つは、この物語が「いじめられた末弟がそれを克服する、少年の成長物語」という神話の典型的なパターンだということ。もう一つは、因幡の白兎を治療するオホナムヂは「医療の知識を持っている=主(ぬし)の資格を持っている」神として描かれている、ということです。オホナムヂはここで、主(ぬし)になる力があるかどうかを試され、それを見事にクリアしたのが、この「因幡の白兎」の物語だというのです。


神話の典型「試練を克服する末弟の成長譚」、これは世界中の神話に見られるパターンかと思います。また「医療の知識=主の資格」という見方は、これまでまーさんの知るところではなく、非常に興味深く感じられました。





<「木の国」から「根の堅州の国」へ>
「木の国」にまで迫って来た兄たちから逃げるため、オホナムヂは「根の堅州の国」へと向かう。ここにはスサノヲ(オホナムヂの7代前の祖先神)がいる。オホナムヂはこの国で、スサノヲの娘スセリビメと出会い、結ばれる。スサノヲはこの結婚に際し、オホナムヂに試練を次々と与える。このままではオホナムヂが死んでしまうと思ったスセリビメは、「共に逃げましょう」と言い、二人はスサノヲの太刀と弓を持って逃げる。そこに現れたスサノヲは次のように告げる。「オホナムヂよ、お前はその太刀と弓を持って兄弟を追い払い、オホクニヌシ(大国主)となって地上を治めよ。」こうしてオホナムヂはオホクニヌシとなり、地上(出雲)に初めて国を作ったのである。



この神話について、三浦氏の解説で面白かったのは、以下の二つです。
一つは、「日本海文化圏」(三浦氏の造語)の存在について。古代日本において、出雲を中心とした日本海側は、大陸とつながった文化的先進地であり、これを三浦氏は「日本海文化圏」と名付けておられます。この文化圏には、

   朝鮮半島
  ⇅    ⇅
 筑紫 ⇄ 出雲 ⇄ 高志(コシ)⇄ 州羽(スハ)


という流れがあり、更には日本海を通じて、東北・北海道・沖縄まで人・物が行き来し、古代においては日本海側全体が文化的先進国として栄えていた、その中心が「出雲」だったとのことです。

もう一つは『古事記』には二つの世界観があるとの指摘です。図解すると以下のようになります。

水平的世界(南方的・縄文的)  垂直的世界(北方的・弥生的)
  常世の国            高天の原  【 天上 】
                           ↓
  ワタツミの宮          葦原の中つ国【 地上 】
                           ↓
  根の堅州の国          黄泉の国  【 地下 】


『古事記』には上記のような二つの世界観が混在している。つまり、「海の彼方に神の世界がある」とする水平的・南方的・縄文的な世界観(同様の神話はインドネシア・マレーシア等にも見られる)と、「天上・地上・地下」という垂直的・北方的・弥生的な世界観(こちらは天皇家の世界観)が混じり合って出来ているのが、日本神話だというのです。
極東に位置する日本列島は、人及び文化の流れが全て溜まっていく「どん詰まり」の場所である、だからこのように世界観の混在が起きるのである、と三浦氏は述べられています。
そしてそれは神話のみならず、日本人そのものも二つのルーツ(南から来た旧日本人=縄文人と、北から来た新日本人=弥生人)があり、これが混じり合って生まれていることを示していると氏は仰っていました。


まーさんは、日本の神話・伝承・物語等に見られる、水平的世界観と垂直的世界観の混在について、以前から疑問と興味を抱いていましたが、三浦氏の説明はとても分かりやすく納得のいくものでした。もちろん「日本人」と一括りに言っても、その他の先住民族の存在など、さらに複雑な歴史があることは間違いありません。しかし、極東の日本に様々な民族が流入し入り混じり、現在の日本人および日本文化が出来たと考えると、「日本という国」が“文化の雑種性”に一貫して寛容である理由が、何となく分かるような気がするのです。





<国譲り>
オホクニヌシの治める地上の繁栄を、天上から見ていたアマテラスは「オホクニヌシに代わり、地上を我が御子に治めさせよう」と考えるようになる。そして何人もの神々を地上に送り込んだが、皆オホクニヌシに懐柔されてしまい、うまく事がが運ばなかった。そこで最後にアマテラスは、武勇に優れたタケミカヅチを地上に送り込み、オホクニヌシに地上をアマテラスの御子に譲るよう迫る。オホクニヌシは二人の子供達にどうするかを聞いたところ、一人は快く了承し、一人は抵抗した。しかし最後には降参した。そこでオホクニヌシは「この出雲の国を献上するにあたり、天上地下に届くような立派な柱を持った住まいを建てて欲しい。それが条件だ」とし、無事国譲りは終わった。この時の建物が現在の出雲大社の起源だという。



この物語は「日本海文化圏の終焉」を表わしていると、三浦氏は言われます。『古事記』という神話では、いかにも穏やかに国譲りが進んだように記述されていますが、実際はもっと激しい争いがあったのではないかと氏は述べておられます。(事実、中国の歴史書には、この頃の日本の状態は「倭国大乱」と記載されており、多くの国々に分かれて争い合っていたらしい事が分かるそうです。)

また三浦氏は、いわゆる「記紀」と並び称される『古事記』『日本書紀』を比較して、次のようであるとも指摘されています。

『日本書紀』
ヤマト朝廷の正史
(立場)
・ヤマト朝廷の支配は揺るぎない。
・過去よりも、現在・未来の国家を意識

『古事記』
在野の歴史書
(立場)
・敗者にも目を向けている。
・現在よりも、過去の物語を重視


つまり、『日本書紀』が中国・朝鮮に向かって日本の素晴らしさを強調したい正史である(ため、「出雲神話」はすべて省かれ、純粋漢文で書かれている)のに対し、『古事記』は滅びても素晴らしい人々がいた(オホクニヌシ)事を伝える語り部の役割が、存分に発揮された書物である、というのです。




『古事記』『日本書紀』ともに、天武天皇の命により編纂された書物ではありますが、『古事記』は、本居宣長が注目するまでひっそりと伝えられてきた本であることを考え合わせると、確かに氏の仰るように『古事記』=在野の歴史書=敗者への視線を重視した書物、と考えてよいかもしれません。
穏便に国譲りがなされた、という記述に、逆説的に敗者の痛切な無念を感じるとも、三浦氏は述べておられました。
まさにそこが、『古事記』という書物の文学的な魅力なのかもしれません。







家事の合間を縫って、細切れにまとめているこのブログ。
思考を深化させたい時には、中々厳しいものを感じますが(汗)、何とか頑張って書いておりまする(@_@)

次回はいよいよ最終回、「古事記の正体とは」について、綴っていきたいと思います。



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『100分de名著 古事記 第二回「文化と農耕の起源」』

本日は、二十四節気の「寒露」にあたります。
いつも参照させていただく本『日本の七十二候を楽しむ―旧暦のある暮らし―』
(文 白井明大 絵 有賀一広 東邦出版)から引用しますと、寒露とは
「露が冷たく感じられてくるころのこと。空気が澄み、夜空にさえざえと月が明るむ季節です。」とあります。
しかしながら、今日の暑さ、まるで夏に逆戻りしたようです。午後になって風がいくらか涼しく感じられてきましたが、それでもまーさんの今日の服装は半袖にショートパンツ(^^ゞ全くの夏服でございます。



              ◇



さて今日は『100分de名著 古事記』の第二回目、「文化と農耕の起源」について綴っていきたいと思います。





<三柱の貴神誕生と、スサノヲ・アマテラスの対照性>
イザナミから逃げて戻ったイザナキが、ミソギによって生み出した三柱の貴神は、それぞれ次の場所の統治を命ぜられた。

アマテラス:高天の原の統治
ツクヨミ:夜の国の統治
スサノヲ:海原の統治

しかし、弟のスサノヲだけは「母に会いたい。母の国へ行かせてほしい」と泣きわめくばかりで統治せず、その結果、国が乱れてしまった。怒ったイザナキは「どこへでも行け」とスサノヲを見放し、彼は旅立つ前に姉のアマテラスに別れを告げるべく高天の原へと向かう。しかしここでもスサノヲは、アマテラスに謀反を疑われ、「誓約(ウケイ)」と言われる占い(コイントスのような勝負。)に勝つことによって、ようやく謀反の気持ちがないことを証明する。しかし、「誓約」に勝ったスサノヲは傍若無人の限りを尽くし、心を痛めたアマテラスはとうとう「天の岩屋戸」にこもってしまう。すると天地は暗闇となり、災いが起こり、困り果てた神々は、岩屋戸の前でにぎやかな宴を催し、何事かと覗いたアマテラスを再び外に連れ出すことに成功する。こうして世に光が再び戻ったのである。一方スサノヲは厳しく処罰され、高天の原を追放されることとなった。


ここで指南役の三浦佑之氏は、アマテラスとスサノヲがあらゆる点で対照的であることを指摘されています。図解すると以下のようになります。

アマテラス(姉)=秩序    スサノヲ(弟)=無秩序
・正当            ・異端
・女性性           ・男性性
・太陽            ・暴風
・調和            ・暴力性


そしてスサノヲは「少年的なところがある、一番魅力的な神」であること、またアマテラスは「自尊心の強い、最も偉い神」であるが、その一番の神が、天の岩屋戸の一件ではまんまと騙されて、外に出てきてしまう面白さを、語っておられました。

『古事記』の面白さは、「正当かつ最上の神であるアマテラスを崇め、異端であるスサノヲを悪の代表とする」と言ったような単純な枠にはめない所にあるのだと、氏の指摘でまーさんは気づきました。またそれは、善悪・正邪といった二項対立に捉われない日本人の物の考え方の基本を、表わしているようにも思いました。





<オホゲツヒメとスサノヲ―食の起源―>
高天の原を追放されたスサノヲは、地上に戻る途中空腹のため、食を司るオホゲツヒメを訪ねる。ヒメはスサノヲのために次々とうまい食べ物を出してくれたが、なぜそのようにもてなすことが出来るのか不思議に思ったスサノヲは、ヒメがどのように食べ物を用意するのか、厨房をのぞいてみた。するとヒメは自らの口・鼻・尻から食べ物を生み出していた。「そのような不浄なものを食わせるとは!」と怒ったスサノヲは、オホゲツヒメをめった切りにし、殺されたヒメの体からは、「蚕・粟・小豆・麦・大豆・稲」が生まれた。これが五穀の起源である。


この話について、三浦氏は「オホゲツヒメというのは元々「無秩序な状態で食べ物を生み出してくる神」であったが、スサノヲがこれを殺すことによって「種」を手に入れ、新しい「生産(秩序)」が始まったのだ」と述べておられました。
またこれは、「死や災いによって次の物が生まれてくる。死ぬと次の物へ転嫁してゆく。新しい生が生まれる」ことを表した話であるとも指摘されていました。

無秩序であった食の在り方が、種の制御によって秩序だった形へと変化してゆく。それを神話では上記のように表したのだという説が、まーさんには非常に面白く感じられたのであります。





<ヤマタノオロチ―農耕の起源―>
地上に降りて、出雲国の肥の川を遡ってゆくと、川のほとりで老夫婦とその娘が泣いていた。理由を尋ねると「8人いた娘は皆ヤマタノオロチに食われてしまった。今またこの末娘が食われようとしている。」と老夫婦は語った。そこでスサノヲは「もしその末娘を嫁にくれるなら、オロチを退治してやろう。私はアマテラスの弟、スサノヲだ」と名乗り、オロチ退治を行う。老夫婦に酒を用意させ、酒に酔ったオロチの首を次々とはね、退治に成功したスサノヲは、末娘(クシナダヒメ)を嫁にもらったのだった。


ヤマタノオロチは「谷八つ分」というすさまじい大きさの化け物ですが、このヤマタノオロチ=大きな川と考えると分かりやすいと三浦氏は言われます。出雲国には斐伊川(=肥の川)という、すごい暴れ川があり、それをヤマタノオロチとして表わしているのではないかと。つまり図式化すると、以下のようになります。

ヤマタノオロチ=斐伊川【自然】
      ⇕
スサノヲ=アマテラスの弟【文化】

「【文化】を身につけた神・スサノヲが、【自然】を知恵によってやっつけた」
というのが、この話なのではないかというのです。
さらに言えば、スサノヲは「献身」からオロチ退治を申し出たのではなく、「クシナダヒメをくれるのなら」という条件付きで退治を行っています。これは「クシナダヒメ」の名前を分析してみると分かりますが、「クシ=霊妙な」「ナダ=田んぼ」であり、「クシナダヒメ=霊妙な田んぼの女神」の意となる。要するにこの話は、「種を持った男・スサノヲが、田んぼの女神・クシナダヒメと結婚する」という、「農耕の起源」が語られているのだと、氏は指摘するのです。






スサノヲが関わる一連の神話は、「縄文から弥生への移行」「弥生の始まり」を表わしていると、三浦氏は言われます。
そして氏は、「田んぼとは、今の我々からすると如何にも“自然”を表わしているようだが、実は田んぼ=最も自然を破壊した姿・最初の自然破壊・人工物である」とも仰っています。

氏の最後のことば「オホゲツヒメを殺すという血塗られた過去を「種」は持っている。このことが、実は人間の持つ「罪」なのかもしれない」との指摘が、非常に印象に残りました。







天界では無秩序の代表のようであったスサノヲですが、地上に降り立った途端、アマテラスの弟として【文化】のメタファー的な存在となります。そしてそのスサノヲが、種を手に入れ食を秩序化し、また「種」と「田」を結び付け、農耕によって自然を制御する、という展開が、まーさんには非常に興味深く感じられました。

世の中があらゆる意味で飽和状態を迎え、行き詰まりを見せる中、
そこに風穴を開ける一つの方策として「縄文時代」をもう一度検討してみよう、という流れがあるかと思います。
農耕というある種の自然破壊によって、文化的生活を手に入れた人間は、現在に至るまでその自然解体によって、いわゆる「発展」を遂げてきたわけですが、そうした人間のありようの起源が、『古事記』という神話ではこのように描かれているという事実に、とても興味を惹かれます。
と同時に、三浦氏の言に従えば「種を手に入れる=血塗られた人間の罪」とする辺りに、まーさんは(縄文文化の見直しということも含めて)、『古事記』という書物が、現代日本人に訴えかける何かを持っているのではないか、と思う次第であります。




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『100分de名著 古事記 第一回「世界と人間の誕生」』

昨夜は、上野の国立科学博物館で開催されている「深海」展を見に行きました。
平日は比較的空いているということでしたが、やはり大盛況で、
息子は大人達の隙間から、「見えない~見えない~」
と必死になって、のぞいていました(笑)
噂の「ダイオウイカ」すごかったです。実物もさることながら、
深海を泳ぐ映像も圧巻、ついでに言えば、
グッズ販売コーナーの「実物大ダイオウイカぬいぐるみ」(200,000円也)
もすごすぎました・・・

              
              ◇


ところで。本題に入ります。
NHK Eテレ東京に、『100分de名著』という番組があります。
毎月4回にわたり、古今東西の名著を、司会の武内陶子氏・伊集院光氏、
そして専門家の方一人を招いて注釈・解説するという番組です。

先月9月は、1300年前に編纂された日本神話『古事記』を取りあげていました。
「日本とは何か」
「日本人とは何か」

というまーさんの最大の関心事と言ってもよい事柄に応えてくれる番組内容で、大変面白かったので、ここにご紹介したいと思います。




今回は9月4日放映の「世界と人間の誕生」より、興味深かった部分をまとめてみます。




まず、知らなかったのですが、昨年は『古事記』編纂1300年の節目の年だったそうで、本書はちょっとしたブームになっており、なんと「古事記ガール」なるものも出現しているとか(驚)

それはともかく、『古事記』はご存じの通り、日本最古の歴史書であり、天武天皇の命により稗田阿礼が諳んじたものを太安万侶が編纂して712年に成立した書物です。
今回の指南役(専門家)は、立正大学教授の三浦佑之氏でしたが、氏によれば、本書の成立はもう少し古いのではないかということでした。




また、続いての氏のお話がとても興味深かったので、箇条書きにしてみます。
☆古代日本には文字がなく、国家もなく、
 多くの豪族がそれぞれの国を治めていた。
 そういう中で、各豪族にはそ の一族の歴史を
 代々語り伝える「語りべ」が存在
していた。
 その語りべは、
 のちの大和朝廷にも受け継がれ(稗田阿礼のように)、
 代々の歴史・神話を伝えることとなった。

☆『古事記』は
  上:神々の世界
  中:初代神武天皇~15代応神天皇
  下:16代仁徳天皇~33代推古天皇
 の3部から成っているが、
 天皇の命によって編纂されたにもかかわらず、
 天皇に批判的な記述も存在する。
 つまり、歴史を第三者的に眺めているところあり、
 そこが本書の魅力である。

☆『古事記』は長らく表舞台に出ることがなく、
 江戸時代、本居宣長が注釈をつけるまでは、
 ひっそりと伝えられて
きた書物だった。

なるほどですねえ。




そしてこの後、「日本という国がどのようにして生まれてきたか」について、『古事記』の最初の記述が解説されました。

<日本の誕生>
高天の原(天の神が暮らす天上の世界)に、アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カムムスヒの三柱の神がなり出た。続いて男と女の兆しを持つ神イザナキ・イザナミがなり出て、国づくりを命ぜられ、島々(国)やそこを治める神々を沢山生んでいった。


三浦氏によれば、世界の創世記で使われる動詞は3つあり、「つくる」「うむ」「なる」であると言います。他国で使われる前者2つの動詞は、絶対神のような「主体」が必要なのに対し、日本の『古事記』で使われる「なる」という動詞には、主体が必要ありません。主体を必要とせず、神々も(人間も)自然になり出てきたのだという発想は、おそらく日本の湿潤な気候の中で、植物が自然にどんどん育っていく様子を見て生まれたのではないか、と氏は述べられていました。これは別の言い方をすると、日本という国は「あるがまま」で「主体性がない」ともいえると、氏は仰っておられました。

「主体を必要としない」とは、日本の特性を考えるうえで、非常に重要なキーワードだと思います。例えば日本語は、英語のように主語がなくても成立しますし、日本人の物の考え方や文化のあり方は「主体を必要としない」所から出発している部分も大いにあるような気がします。
日本及び日本人を考える手立てとして、この『古事記』を読み解くというのは、非常に有効であると、まーさんは改めて思いました。





<イザナミの死と新たな神々の誕生>
次々と神々を生み出していったイザナミは、最後に火の神ヒノカグツチを生むが、その時のやけどが元で死んでしまう。怒りに狂ったイザナキはヒノカグツチの首を斬り、イザナミと呼び戻すため黄泉の国へと向かう。黄泉の国でイザナミに「地上へ戻ろう」というとイザナミは「こちらの神にお伺いを立てますので、決してこの中を覗かずに待っていて下さい」と言う。しかし、待ちきれなかったイザナキは、約束を破って中をのぞいてしまう。すると、そこには見るも無残な、ウジの湧いたイザナミの体が。約束を破ったイザナキに怒ったイザナミは、「逃げるなら地上の人間を1日に1000人殺します」と言いながら追いかける。一方イザナキは「それなら私は1日に1500人の命を誕生させよう」と返す。そうして辛くも逃げ延びたイザナキは、死の汚れを祓うみそぎを行い、そこで三柱の貴神、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲを生み、更にこの後は、一人で沢山の神々を生み出してゆく。


ご存じ、世界中の神話や昔話にたびたび登場する「見るなの禁忌」のお話です。この話から、三浦氏は次のようなことを指摘されていました。
「ヒノカグツチを生んだ時イザナミが死ぬ」という話は、「死=新しいものを生み出すための犠牲」であることを表しており、実際イザナキは、イザナミの死後、今後中心となってゆく素晴らしい神々・三柱の貴神を生み、更に一人で沢山の神々を生んでゆく。死によって新しい生が生まれてくることが、ここに表されているのだ。




三浦氏は最後に、「神話とは、古代人が「自分達がなぜここに生きているのか」を考え、「世界の成り立ち」を考え、「自分の生死を受け入れる」ための、古代人なりの知恵・哲学・教えであった」と述べられています。




今回の放映で、まーさんが最も興味深かったのは、「なる」という動詞に象徴される、日本及び日本人の「主体を必要としない」あり方の考察です。三浦氏は、「絶対神がいないことも日本の特徴」と仰っていましたが、それもこれも皆、氏の考えに照らし合わせてみれば、植物のおい出てくる有様にすべての事象を重ね合わせて見出してきた、古代日本人の心のありようを、端的に表していると言えるでしょう。

しかし、一概に「日本人」と言っても、よく言われるように、日本には南方系の縄文人と、北方系の弥生人の2つの流れが存在します。果たして『古事記』では、この問題はどのように描かれているのでしょうか。
これについては、次回以降の放映で、詳しく考察されています。




次の記事では、第2回「文化と農耕の起源」(9月11日放映)について綴ってみたいと思います。


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阪田寛夫「葉月」

関西弁の、めっちゃ面白い詩があります。
阪田寛夫「葉月」です。



我が家の息子は、寝る前に必ず、
まーさんの読み聞かせorお話を要求します(^^ゞ

先日、ふと阪田氏のこの面白い詩を思い出し、
息子に語って聞かせようとしたのですが、
手元に詩集もなく、諳んじてもいず、
それどころか、題名すら忘れていました(汗)

「あのさあ、すごく面白い詩があるんだけど、
 忘れちゃったんだよねえ。
 ほんとに面白いんだよ。聞かせてあげたいんだよ。」

「でも、忘れちゃったんじゃ意味ないじゃん。
 いいから違う話してよ~~~!」
と、シビアな息子なのでした・・・。



ところが一昨日、少し時間が出来たので近所の本屋を冷かしていると、
見つけたのです、阪田寛夫氏の「葉月」が載っている本を!!

これです。
『詩のこころを読む』(茨木のり子 著 岩波ジュニア新書9)



本書は、詩人の茨木のり子氏が、ご自身の心に残る詩を、
解説をつけながら若い人たちに紹介しよう、
というコンセプトで編まれた本です。
目次を見ただけで、ため息が出てしまいました。
昔読んだ、まーさんが大好きな詩の数々。
もちろん、即買いでございます(笑)



阪田寛夫氏は、あの有名な童謡「サッちゃん」の作詞者でもあります。
まーさんも大好きな曲で、息子が小さい時はよく歌っていました。
特に3番がそこはかとなく切なくて、心に響きます・・・
氏はまた、『土の器』で芥川賞も取っています。
まことに才能あふれる、魅力的な方なのです。
2005年にお亡くなりになった時は、ひそかに落胆し、
改めて詩集を読んだりもいたしました。

それはともかく、氏の面白い恋愛詩「葉月」ですね。
そう、これは恋愛の唄なのです。
上記の本にも「恋唄」の分類で記載されています。



どのような詩なのか。
「面白い面白い」ばかり連呼しても、
皆さまいっこうにお分かりにならないと思いますので、
少しだけ引用させていただきます。
冒頭はこうです。



     葉月          阪田寛夫
   
 こんやは二時間も待ったに
 なんで来てくれなんだのか
 おれはほんまにつらい
 あんまりつらいから
 関西線にとびこんで死にたいわ
 
   
      ◇
 
      ◇
   
      ◇

死にたいわ、ってあなた、そんな大げさな・・・
いやでも――恋愛ってこういうもんかもな。
大好きな人に待ちぼうけ食らわされたら、
もう死んでしまいたいわ、みたいな・・・

このあと、詩では、
「でも、わるいのはあんたやない、わしや。
だって・・・云々」
てな繰り言?が続きます。

恋愛特有のおかしみと哀しみ――
思わず笑っちゃう、胸の内での独り言。



そして最後はこうです。

        ◇
   
        ◇

        ◇
 
 そやけど
 むかしから
 女に二時間待たされたからて
 死んだ男がおるやろか
 それを思うとはずかしい
                ――詩集『わたしの動物園』




オチもしっかりあって、いやあ、大好きです、この詩。



昔、この「葉月」を、子供達の前で朗読する機会がありました。
ワタクシ、関東生まれの関東育ち。根っからの関東人なのですが、
学生時代の友人や先輩(大阪・兵庫)のイントネーションを思い出しつつ、
関西弁風に語ってみたのです。
すると・・・
子供達に、大ウケでした~~(^^ゞ
「笑える!」「面白い!」「こんなにウケる詩があるんだ!」
「大げさだなあ」「でも気持ち分かる~~」などなど、
いろんな感想を寄せてくれました。



日本には、心を揺さぶる素晴らしい詩がたくさんあります。
「詩」というと、学校教育の影響が強いのか、
難解で教条的なイメージを持たれている方も中にはいらっしゃるようですが、
そんなことはありません。
ことば遊びの詩、実験的な詩、楽しい詩、美しい詩、
心の支えとなるような深い詩・・・様々です。

日本の素晴らしい詩が、多くの皆様の目に触れて、
一つでも琴線に触れる詩に出会えましたら、
こんなに素敵なことはないと思うのです。
そういう意味で、上記の茨木氏のジュニア新書『詩のこころを読む』は、
子供達にそんな機会を与えてくれる(もちろん大人にも)
格好の書だと考える次第であります。



もし、阪田寛夫「葉月」の全文がお読みになりたいと思われましたら、
ぜひ読んでいただけたらと思います。
今回掲載していない、あいだの部分が、またイイんですよ(笑)
関西弁で、声に出して、トライして下さいませ!!



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プロフィール

まーさん

Author:まーさん
息子と夫と私、考え方も行動もてんでバラバラな3人で暮らしています(笑)でも仲良しです。
音楽、映画、読書が好き。芸術鑑賞、外国語、旅行も好きです。ゆ~る・じゃぱんでは、日本大好きまーさんが暮らしのに漂う日本の香り・日本文化をゆる~く綴っていきます。

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