まーさん超訳『竹取物語』~かぐや姫帝の召しに応ぜず昇天す⑫~
とうとう『竹取物語』、最終回となりました。
明日・7月1日は「富士山開き」。
そんな日にふさわしい、今日の最終回を
どうぞ皆様、最後までお読みいただければ幸いです。
まーさん超訳『竹取物語』
~かぐや姫帝の召しに応ぜず昇天す⑫~(最終回)
その後、翁と嫗は血の涙を流し心を乱したが、結局どうすることもできない。
あの、かぐや姫が書き置きした手紙を、周りの者が読んで聞かせても、
「何をしようとて命を惜しむのか。誰のために惜しむ命があろうか。
もう何も必要ない――」
と言って、薬も飲まない。
そのまま起き上がることもなく、病み伏せっている。
中将・高野のおおくには、
翁の家に派遣されていた家来達を引き連れ内裏に帰参し、
かぐや姫を戦い留めることが出来なかった旨、帝にこまごまと奏上する。
そして、不死の薬が入った壺に、かぐや姫からの手紙を添えて帝に差し上げる。
帝はその手紙を広げてご覧になり、ひどくしみじみと御心を打たれ、
その後は何もお召し上がりにならず、管弦の御遊びなどもなさらないのだった。
帝は、大臣・上達部などをお召しになり、
「どの山が天に近いか。」
とお尋ねになる。すると、ある人が奏上する。
「駿河の国にあるという山が、この都にも近く、天にも近うございます。」
帝はこれをお聞きになって、
あふこともなみだにうかぶ我が身には死なぬ薬も何にかはせむ
≪かぐや姫に会うことももう再びないゆえに、
とめどなく流れる涙の中に浮かんでいるような我が身にとっては、
不死の薬も何になろうか、いや何の意味もないものだ――≫
帝は、かのかぐや姫が献上した不死の薬壺に手紙を添えて、
御使いの者にお渡しになる。
勅使には、調(つき)のいわがさという人をお召しになり、
駿河の国にあるという山の頂上に持ってゆくようお命じになる。
そしてその山頂にて、御手紙と不死の薬壺を並べ、
火をつけて燃やすよう仰せになる。
その旨をうけたまわり、調のいわがさは、
士(つわもの)どもを沢山引き連れて山に登った。
それゆえ、この山を
「士に富む山」つまり「富士の山」と名付けたのである。
そして、その不死の薬を焼く煙は、
今もなお、雲の中へ立ち上っていると、言い伝えられている――
◇
冷徹な天女・かぐや姫は、多くの人々との関わりの中で、徐々に人間性を獲得し、わけても帝との深い心のやり取りは、彼女を「あはれ」を解する“人間”へと変化させる契機となりました。
しかし運命は非情なもの。結局かぐや姫は、抗えない定めに従い、再び故郷である月世界(天上界)へと帰って行ったのです。
一方、残された帝は、姫から献上された不死の薬を「なににかはせむ」と放棄し、天へと返却するべく富士の山(士に富む山・不死の薬を燃やした山)にて燃やさせました。
手紙にしたためられた帝の思いは、不死の薬と共に煙となって天に上ります。
この「不死の薬が結局燃やされた」という結末は非常に重要です。なぜならこれは、「帝という最高位の存在が、不死となること(=天人となる事)を放棄し、喜怒哀楽・生老病死のある人間として(=あはれを解する人間として)生きることを選択した。」というメタファーにもなっているからです。
限りある命・苦の娑婆――だからこそ人間世界は、よりいっそう愛おしく美しく、あはれに満ちている――そんなささやかな人間賛歌を、作者は時を越えて、我々に語りかけているのではないかと思う次第であります。
参考文献
*『日本古典文学全集8 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』(小学館)
*『岩波古語辞典』(大野晋 佐竹昭広 前田金五郎 編)
かつては煙立ち上る山だった富士山。
余韻に満ちた結末です・・・
↓☽☽☽↓

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~かぐや姫帝の召しに応ぜず昇天す⑫~(最終回)
その後、翁と嫗は血の涙を流し心を乱したが、結局どうすることもできない。
あの、かぐや姫が書き置きした手紙を、周りの者が読んで聞かせても、
「何をしようとて命を惜しむのか。誰のために惜しむ命があろうか。
もう何も必要ない――」
と言って、薬も飲まない。
そのまま起き上がることもなく、病み伏せっている。
中将・高野のおおくには、
翁の家に派遣されていた家来達を引き連れ内裏に帰参し、
かぐや姫を戦い留めることが出来なかった旨、帝にこまごまと奏上する。
そして、不死の薬が入った壺に、かぐや姫からの手紙を添えて帝に差し上げる。
帝はその手紙を広げてご覧になり、ひどくしみじみと御心を打たれ、
その後は何もお召し上がりにならず、管弦の御遊びなどもなさらないのだった。
帝は、大臣・上達部などをお召しになり、
「どの山が天に近いか。」
とお尋ねになる。すると、ある人が奏上する。
「駿河の国にあるという山が、この都にも近く、天にも近うございます。」
帝はこれをお聞きになって、
あふこともなみだにうかぶ我が身には死なぬ薬も何にかはせむ
≪かぐや姫に会うことももう再びないゆえに、
とめどなく流れる涙の中に浮かんでいるような我が身にとっては、
不死の薬も何になろうか、いや何の意味もないものだ――≫
帝は、かのかぐや姫が献上した不死の薬壺に手紙を添えて、
御使いの者にお渡しになる。
勅使には、調(つき)のいわがさという人をお召しになり、
駿河の国にあるという山の頂上に持ってゆくようお命じになる。
そしてその山頂にて、御手紙と不死の薬壺を並べ、
火をつけて燃やすよう仰せになる。
その旨をうけたまわり、調のいわがさは、
士(つわもの)どもを沢山引き連れて山に登った。
それゆえ、この山を
「士に富む山」つまり「富士の山」と名付けたのである。
そして、その不死の薬を焼く煙は、
今もなお、雲の中へ立ち上っていると、言い伝えられている――
◇
冷徹な天女・かぐや姫は、多くの人々との関わりの中で、徐々に人間性を獲得し、わけても帝との深い心のやり取りは、彼女を「あはれ」を解する“人間”へと変化させる契機となりました。
しかし運命は非情なもの。結局かぐや姫は、抗えない定めに従い、再び故郷である月世界(天上界)へと帰って行ったのです。
一方、残された帝は、姫から献上された不死の薬を「なににかはせむ」と放棄し、天へと返却するべく富士の山(士に富む山・不死の薬を燃やした山)にて燃やさせました。
手紙にしたためられた帝の思いは、不死の薬と共に煙となって天に上ります。
この「不死の薬が結局燃やされた」という結末は非常に重要です。なぜならこれは、「帝という最高位の存在が、不死となること(=天人となる事)を放棄し、喜怒哀楽・生老病死のある人間として(=あはれを解する人間として)生きることを選択した。」というメタファーにもなっているからです。
限りある命・苦の娑婆――だからこそ人間世界は、よりいっそう愛おしく美しく、あはれに満ちている――そんなささやかな人間賛歌を、作者は時を越えて、我々に語りかけているのではないかと思う次第であります。
参考文献
*『日本古典文学全集8 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』(小学館)
*『岩波古語辞典』(大野晋 佐竹昭広 前田金五郎 編)
かつては煙立ち上る山だった富士山。
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