苫米地秀人『「日本」を捨てよ』
以前からお伝えしている通り、まーさんは息子と共に「21か国語で話そう」クラブで活動しております。
そもそも、なぜこのようなクラブに入ったのかと申しますと、「元々、様々な外国語を音の波のように聞くことが好きで、かつそれらを日常生活に困らない程度に習得したい」と考えていたからなのですが、しかしそれ以上に「単言語社会である日本に暮らすことが、どうしようもなく息苦しく、とにかく多言語の中に身を投じたい」というのが当面の最大の理由でした。
言語とはご承知の通り、それを話す人々の文化・慣習と表裏一体をなすものです。つまり、「日本語という言語」はその背景に、「日本の文化・慣習」をずっしりと背負っているのであり、日本語を使用する者には否応なくその文化的束縛が伴うのであります。
その閉塞感、息苦しさ・・・まーさんはいつしか、この重圧に耐えきれなくなり、それこそ本当に息をするのも苦しくなってきました。
そんな時に出会ったのがこの「21か国語で話そうクラブ」でした。
まあここは、何と居心地の良い空間だったことでしょう!!
クラブのドアを開けると「オラ!」の挨拶。帰る時には手を上げて「再見!」。活動中に飛びかう言葉は「メルシー」「ムイビエン」「スレズシ」「クェンチャナ」等々・・・
どれもみんな、違う国の言葉です。
日本語=日本的価値観から一歩離れ、様々な言語によって自由に交流する場。そこには地球規模に広がる心の自由が確かに存在していました。
地球上のあらゆる人々に開かれた心。“地球文化”という考え方を当たり前のように感じる心。本当に、酸素マスクをつけたように呼吸が楽になり、まーさんはそれこそ命拾いをしたのでありました(笑)
そんなまーさんが、先日たまたま本屋で購入した本がこちら。
筆者・苫米地氏はとんでもなく肩書きの多い方で著書も多く、その内容も多岐に亘っており、時々TV出演もされていますが、一部(ネット等)ではかなり痛烈な批判を受けてもいる方です。
そのような方の著作ですから、賛否両論あるかとは思いますが、まーさんは本書の題名である『「日本」を捨てよ』と、表紙裏の「この国を覆う息苦しさの正体」という言葉に惹かれ、試しに読んでみようと購入を決めました。
感想を一言で申せば、「論証あるいは代替案抜きに様々なことが語られており、申し訳ないが、突っ込みどころが満載(笑)。しかし軽い読み物として、また日本再考のきっかけとして読んでも損はない。」といったところでしょうか。
気になる内容ですが、章立てはこうです。
第1章 日本人はなぜ立ち上がらないのか
第2章 日本人はなぜ幸福を感じられないのか
第3章 「日本」という枠組みを疑え
第4章 正しい「日本」の愛し方
いかがですか?多少なりとも興味をお持ちになったでしょうか。
では次に、各章で述べられていた要旨を簡潔にまとめてみます。
第1章 日本人はなぜ立ち上がらないのか
1.儒教に洗脳されているため。
儒教=君子(エリート)が徳を持って統治する社会。
裏を返せば人民の主権や自由は否定され、
民は支配者の言うことに従順に従うべし、という思想。
2.日本は相互監視社会(「村八分」という抑止力)であるため。
3.日本は「パノプティコン社会」であるため。
パノプティコン=哲学者ミシェル・フーコーの言う監獄監視システム。
放射状の独房の真ん中に監視塔が置かれていると、
たとえそこに看守がいなくとも 囚人は気を抜くことが出来ない
というシステムである。
そして日本でよく言われる「お天道様が見ている」は、
「どこにも他人の目はあるぞ」の脅しである。
第2章 日本人はなぜ幸福を感じられないのか
例えば裁判時、被告人の見た目や態度で判決が左右されるような、あいまいな「情状酌量文化」がまかり通っているから。これは合理的かつ客観的な意思決定を行う民主主義の論理と反しており、儒教的な上下関係の伝統、あるいは一神教的フェアネスの欠如により助長されている。
またフェアネスのない社会は機会の平等がなく、「世襲」に代表されるような元々有利な立場にいる人と、そうでない人との間で、自己実現の可能性に大きな開きがある。そしてその封建社会を裏支えしているのが、日本の「三育主義」のうちの「徳育」「体育」である(この二つにより、日本の子供達は徹底的に秩序を守るよう仕込まれ、ユニークで自由な発想はつぶされてゆく)。
こうした理由により日本人は未来に希望が持てず、幸福感を感じられないのである。
第3章 「日本」という枠組みを疑え
ここまで閉塞感を感じながら、なぜ日本人は相変わらず日本(国家)を信用し、日本にしがみつくのか。
それは儒教思想にある「優れた人格者でなくては、支配者になってはいけない」が、いつのまにか「支配者はみな人格的に優れた、良い人のはずだ」に論理転換してしまったからである(だから支配者を盲目的に信じてしまうのである)。
また脳の特性であるスコトーマ(見たくない現実を脳は認識できない)が働いていることも事実である。
そして、そもそも「国家」「国民」とは人工的に作られた概念であり、サンフランシスコ講和条約を厳密に解釈すれば、「日本国」という独立国は存在しないことになっている。したがって「日本国民」という概念もまた幻想である。
ならば、「日本人」は存在しないのか?
そうではない。国家を前提としなくても、ある文化を共有している人々をひとまとまりの集団として認識することは可能である。
そこを踏まえて「日本人」とはどういう人々かを定義すると、
1.日本人とは「日本方言を話す人」
2.日本人とは「日本で義務教育を受けた人」
と言えるだろう。
以上を理解した上で、我々が「日本」「日本人」という枠組みを飛び出すにはどうしたらよいか。
それにはまず、一人ひとりが「やりたいことをやれ」これに尽きる(個人の自由度が高まると、日本人が烏合の衆になるリスクも高まるが、それでも我々は一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩踏み出すしかない)。
第4章 正しい「日本」の愛し方
筆者が提案するのは、従来の「無教会派」「無政府主義」の考え方をベースに、国家と個人との関係を自由な契約に任せる「実質的な無政府主義」の導入である。
具体的には、
第一段階:道州制を導入し、住む場所を変えるだけで自分が好ましいと思える政策の政府を選べるようにする。
第二段階:土地に縛られない政府選択制を導入する。ある程度のレベルが確保された政府の中から、個人は政府を選択して契約できるようにする。
こう書くとまるでSFの世界のように思えるかもしれないが、実際EU圏民は圏内の好きな国に移住できるし、アメリカは連邦制なので各州が独立国と言っても良い。決して上記の提案は、非現実的なものではないのである。
個人が政府を選べるようになり、それによって自由とフェアネスの度合いが大きく向上した社会。これこそが現実的で実質的な、新しい無政府主義の形である。そしていずれは国境を越えた人生設計が、日本人の間で一般化していくはずである。
真に日本を愛するなら、枝葉の事実に知悉せず、まずは「日本」と適切な距離を取ること。あえて「日本」を突き放すべきである。
それにはまず、
1.一度は外国で暮らしてみる。
2.外国に旅行する機会を増やす。
3.日本語以外の言語を真剣に勉強してみる。
などを実践するとよいだろう。
日本を愛し、本気で日本を救いたいと考えるなら、より高い抽象度から、日本の美点・欠点を認識し、世界全体の中で日本という国がもつ真の価値を見極めよう。
以上が、本書の大まかな内容です。
皆さま、いかがでしょうか。
ざっと読んだだけでも、「これは首肯しかねる」という部分あり、また逆に「なるほどその通りだ・面白い」という部分あり、まあ全体としては興味深く読める本なのではないでしょうか。
まーさんとしては赤字の部分が疑問に思う点、青地のところがその通り、と思う点でありました。
赤字の部分についてのまーさんの見解ですが、
★日本は「パノプティコン社会」であるというが、ワタクシ自身は「ヨコの関係」を重視する日本の特性から見て、ルース・ベネディクトの「恥の文化」あるいは阿部謹也の「世間」のほうがより的を射た表現であると考える。
また、「お天道様」=「他人の目」と氏は解釈しているが、ここにはむしろ、古来より続く日本の自然信仰の風習が色濃く残っていると考えた方が良いのではなかろうか。
★裁判上ということを離れて考えれば、「見た目や態度で左右される」社会は日本だけではない。例えばアメリカの大統領選などでは、状況に応じて立候補者がネクタイの色を変えたりするのは当たり前の話である。
また「フェアネスのない社会は機会の平等がない」というが、ではキリスト教圏の国々では本当に機会の平等が保障されているのか。多くの場合貧富の差はほぼ世襲のように踏襲され、貧困層は貧困層のまま、なかなかそこを脱却出来ないのが現状ではないのか。
★現在の日本人が「支配者は皆人格的に優れている」と盲目的に信じているとは到底思えない。むしろその逆ではないのか。
★道州制は画期的であると思うが、「生まれ育った地を離れたくない」といった情緒的側面、あるいは「現在の仕事を離職してまで移住したくない」「引越しを繰り返すほどの経済的余裕はない」などの現実的側面にはどう対処するのか。そこまで道政府が面倒を見てくれるということなのか。
また、「個人が複数の政府から一つを選択できる」とは具体的にどのような形を持つものなのか。氏はEU圏の例を挙げているが、日本国内で自己完結する形でこれを実現させるには、とてつもない変革が必要であり、それこそSFの世界という感が否めない。ならば日本も近隣諸国とEU諸国のような関係を形成せよということか。それもまた別の意味でSF的に実現不可能な気がする。
とまあ色々述べてきましたが、とにもかくにも、これからは個人の力が大きく世の中を動かす時代。
人々が心の声に従って「やりたいことをやる」のは、ある意味当たり前の世の中となって来るでしょう。
もちろん、戦争や貧困により、それがままならぬ国が世界には多数存在することも承知の上です。
しかし少なくとも今後の日本においては、人々が「やりたいことをやる」姿勢を互いに認め合えるような世の中にしたい。
そうすれば、時間はかかるかもしれませんが、いずれは調和と幸福に満ちた「息苦しくない日本」が作り上げられるのではないかと、まーさんは非常にポジティブに考える(いや考えたい)次第であります。
「ゆ~る・じゃぱん」は鳥のように日本を眺めます・・
↓ww^^ww↓

にほんブログ村

応援クリックありがとうございます!!
そもそも、なぜこのようなクラブに入ったのかと申しますと、「元々、様々な外国語を音の波のように聞くことが好きで、かつそれらを日常生活に困らない程度に習得したい」と考えていたからなのですが、しかしそれ以上に「単言語社会である日本に暮らすことが、どうしようもなく息苦しく、とにかく多言語の中に身を投じたい」というのが当面の最大の理由でした。
言語とはご承知の通り、それを話す人々の文化・慣習と表裏一体をなすものです。つまり、「日本語という言語」はその背景に、「日本の文化・慣習」をずっしりと背負っているのであり、日本語を使用する者には否応なくその文化的束縛が伴うのであります。
その閉塞感、息苦しさ・・・まーさんはいつしか、この重圧に耐えきれなくなり、それこそ本当に息をするのも苦しくなってきました。
そんな時に出会ったのがこの「21か国語で話そうクラブ」でした。
まあここは、何と居心地の良い空間だったことでしょう!!
クラブのドアを開けると「オラ!」の挨拶。帰る時には手を上げて「再見!」。活動中に飛びかう言葉は「メルシー」「ムイビエン」「スレズシ」「クェンチャナ」等々・・・
どれもみんな、違う国の言葉です。
日本語=日本的価値観から一歩離れ、様々な言語によって自由に交流する場。そこには地球規模に広がる心の自由が確かに存在していました。
地球上のあらゆる人々に開かれた心。“地球文化”という考え方を当たり前のように感じる心。本当に、酸素マスクをつけたように呼吸が楽になり、まーさんはそれこそ命拾いをしたのでありました(笑)
そんなまーさんが、先日たまたま本屋で購入した本がこちら。
![]() | 「日本」を捨てよ (PHP新書) (2012/03/15) 苫米地 英人 商品詳細を見る |
筆者・苫米地氏はとんでもなく肩書きの多い方で著書も多く、その内容も多岐に亘っており、時々TV出演もされていますが、一部(ネット等)ではかなり痛烈な批判を受けてもいる方です。
そのような方の著作ですから、賛否両論あるかとは思いますが、まーさんは本書の題名である『「日本」を捨てよ』と、表紙裏の「この国を覆う息苦しさの正体」という言葉に惹かれ、試しに読んでみようと購入を決めました。
感想を一言で申せば、「論証あるいは代替案抜きに様々なことが語られており、申し訳ないが、突っ込みどころが満載(笑)。しかし軽い読み物として、また日本再考のきっかけとして読んでも損はない。」といったところでしょうか。
気になる内容ですが、章立てはこうです。
第1章 日本人はなぜ立ち上がらないのか
第2章 日本人はなぜ幸福を感じられないのか
第3章 「日本」という枠組みを疑え
第4章 正しい「日本」の愛し方
いかがですか?多少なりとも興味をお持ちになったでしょうか。
では次に、各章で述べられていた要旨を簡潔にまとめてみます。
第1章 日本人はなぜ立ち上がらないのか
1.儒教に洗脳されているため。
儒教=君子(エリート)が徳を持って統治する社会。
裏を返せば人民の主権や自由は否定され、
民は支配者の言うことに従順に従うべし、という思想。
2.日本は相互監視社会(「村八分」という抑止力)であるため。
3.日本は「パノプティコン社会」であるため。
パノプティコン=哲学者ミシェル・フーコーの言う監獄監視システム。
放射状の独房の真ん中に監視塔が置かれていると、
たとえそこに看守がいなくとも 囚人は気を抜くことが出来ない
というシステムである。
そして日本でよく言われる「お天道様が見ている」は、
「どこにも他人の目はあるぞ」の脅しである。
第2章 日本人はなぜ幸福を感じられないのか
例えば裁判時、被告人の見た目や態度で判決が左右されるような、あいまいな「情状酌量文化」がまかり通っているから。これは合理的かつ客観的な意思決定を行う民主主義の論理と反しており、儒教的な上下関係の伝統、あるいは一神教的フェアネスの欠如により助長されている。
またフェアネスのない社会は機会の平等がなく、「世襲」に代表されるような元々有利な立場にいる人と、そうでない人との間で、自己実現の可能性に大きな開きがある。そしてその封建社会を裏支えしているのが、日本の「三育主義」のうちの「徳育」「体育」である(この二つにより、日本の子供達は徹底的に秩序を守るよう仕込まれ、ユニークで自由な発想はつぶされてゆく)。
こうした理由により日本人は未来に希望が持てず、幸福感を感じられないのである。
第3章 「日本」という枠組みを疑え
ここまで閉塞感を感じながら、なぜ日本人は相変わらず日本(国家)を信用し、日本にしがみつくのか。
それは儒教思想にある「優れた人格者でなくては、支配者になってはいけない」が、いつのまにか「支配者はみな人格的に優れた、良い人のはずだ」に論理転換してしまったからである(だから支配者を盲目的に信じてしまうのである)。
また脳の特性であるスコトーマ(見たくない現実を脳は認識できない)が働いていることも事実である。
そして、そもそも「国家」「国民」とは人工的に作られた概念であり、サンフランシスコ講和条約を厳密に解釈すれば、「日本国」という独立国は存在しないことになっている。したがって「日本国民」という概念もまた幻想である。
ならば、「日本人」は存在しないのか?
そうではない。国家を前提としなくても、ある文化を共有している人々をひとまとまりの集団として認識することは可能である。
そこを踏まえて「日本人」とはどういう人々かを定義すると、
1.日本人とは「日本方言を話す人」
2.日本人とは「日本で義務教育を受けた人」
と言えるだろう。
以上を理解した上で、我々が「日本」「日本人」という枠組みを飛び出すにはどうしたらよいか。
それにはまず、一人ひとりが「やりたいことをやれ」これに尽きる(個人の自由度が高まると、日本人が烏合の衆になるリスクも高まるが、それでも我々は一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩踏み出すしかない)。
第4章 正しい「日本」の愛し方
筆者が提案するのは、従来の「無教会派」「無政府主義」の考え方をベースに、国家と個人との関係を自由な契約に任せる「実質的な無政府主義」の導入である。
具体的には、
第一段階:道州制を導入し、住む場所を変えるだけで自分が好ましいと思える政策の政府を選べるようにする。
第二段階:土地に縛られない政府選択制を導入する。ある程度のレベルが確保された政府の中から、個人は政府を選択して契約できるようにする。
こう書くとまるでSFの世界のように思えるかもしれないが、実際EU圏民は圏内の好きな国に移住できるし、アメリカは連邦制なので各州が独立国と言っても良い。決して上記の提案は、非現実的なものではないのである。
個人が政府を選べるようになり、それによって自由とフェアネスの度合いが大きく向上した社会。これこそが現実的で実質的な、新しい無政府主義の形である。そしていずれは国境を越えた人生設計が、日本人の間で一般化していくはずである。
真に日本を愛するなら、枝葉の事実に知悉せず、まずは「日本」と適切な距離を取ること。あえて「日本」を突き放すべきである。
それにはまず、
1.一度は外国で暮らしてみる。
2.外国に旅行する機会を増やす。
3.日本語以外の言語を真剣に勉強してみる。
などを実践するとよいだろう。
日本を愛し、本気で日本を救いたいと考えるなら、より高い抽象度から、日本の美点・欠点を認識し、世界全体の中で日本という国がもつ真の価値を見極めよう。
以上が、本書の大まかな内容です。
皆さま、いかがでしょうか。
ざっと読んだだけでも、「これは首肯しかねる」という部分あり、また逆に「なるほどその通りだ・面白い」という部分あり、まあ全体としては興味深く読める本なのではないでしょうか。
まーさんとしては赤字の部分が疑問に思う点、青地のところがその通り、と思う点でありました。
赤字の部分についてのまーさんの見解ですが、
★日本は「パノプティコン社会」であるというが、ワタクシ自身は「ヨコの関係」を重視する日本の特性から見て、ルース・ベネディクトの「恥の文化」あるいは阿部謹也の「世間」のほうがより的を射た表現であると考える。
また、「お天道様」=「他人の目」と氏は解釈しているが、ここにはむしろ、古来より続く日本の自然信仰の風習が色濃く残っていると考えた方が良いのではなかろうか。
★裁判上ということを離れて考えれば、「見た目や態度で左右される」社会は日本だけではない。例えばアメリカの大統領選などでは、状況に応じて立候補者がネクタイの色を変えたりするのは当たり前の話である。
また「フェアネスのない社会は機会の平等がない」というが、ではキリスト教圏の国々では本当に機会の平等が保障されているのか。多くの場合貧富の差はほぼ世襲のように踏襲され、貧困層は貧困層のまま、なかなかそこを脱却出来ないのが現状ではないのか。
★現在の日本人が「支配者は皆人格的に優れている」と盲目的に信じているとは到底思えない。むしろその逆ではないのか。
★道州制は画期的であると思うが、「生まれ育った地を離れたくない」といった情緒的側面、あるいは「現在の仕事を離職してまで移住したくない」「引越しを繰り返すほどの経済的余裕はない」などの現実的側面にはどう対処するのか。そこまで道政府が面倒を見てくれるということなのか。
また、「個人が複数の政府から一つを選択できる」とは具体的にどのような形を持つものなのか。氏はEU圏の例を挙げているが、日本国内で自己完結する形でこれを実現させるには、とてつもない変革が必要であり、それこそSFの世界という感が否めない。ならば日本も近隣諸国とEU諸国のような関係を形成せよということか。それもまた別の意味でSF的に実現不可能な気がする。
とまあ色々述べてきましたが、とにもかくにも、これからは個人の力が大きく世の中を動かす時代。
人々が心の声に従って「やりたいことをやる」のは、ある意味当たり前の世の中となって来るでしょう。
もちろん、戦争や貧困により、それがままならぬ国が世界には多数存在することも承知の上です。
しかし少なくとも今後の日本においては、人々が「やりたいことをやる」姿勢を互いに認め合えるような世の中にしたい。
そうすれば、時間はかかるかもしれませんが、いずれは調和と幸福に満ちた「息苦しくない日本」が作り上げられるのではないかと、まーさんは非常にポジティブに考える(いや考えたい)次第であります。
「ゆ~る・じゃぱん」は鳥のように日本を眺めます・・
↓ww^^ww↓

にほんブログ村

応援クリックありがとうございます!!
- 関連記事
-
- 『和食の知られざる世界』 辻芳樹
- 「臨死体験の本」と「禅の教え」
- 苫米地秀人『「日本」を捨てよ』
- 自分の歌を歌う~岡本太郎『強く生きる言葉』~
- 『野心のすすめ』“ゆ~る”でない生き方
スポンサーサイト