”怒りスイッチ”の所在
季節の変わり目だからでしょうか――
近頃、持病の片頭痛が止まらず、
「う~~」とか「あ~~」とか唸り続けている
まーさんであります・・・(辛)

気分はこんな感じ・・・でしょうか。
さて今年度まーさんは、小学校のPTA役員を引き受け、
ジャンケンに負けて総務委員長となりました。
その経緯については、以前当ブログにも書きましたが、
先週の金曜日・土曜日、
さっそく今年度のPTA総会・第一回理事会が行われ、
まーさんは新総務委員長として
理事会にて初の司会を務めました。
会社にしてもPTAにしても、こうした「組織活動」の場合、
既存の進め方や人の思惑等、様々なしがらみの存在で
事がスムーズに運ばないことが往々にしてあります。
まーさんも今回、この理事会において、
そのことを身を持って実感いたしました。
まあ、事がスムーズに運ばないのは
「組織活動」ではよくあることですし、
今後何らかの方法で改善していけばよいことなので
それほど強い怒りの感情は湧いては来ませんでした。
ところが――
今回の理事会において、それとは別の出来事で、
まーさんは抑え難い怒りの感情を抱いてしまったのです。
日頃から「平常心」とか「明鏡止水」とか、
覚者のような言葉を胸の内で唱えている割には、
存外簡単に“怒りスイッチ”をオンしてしまった自分に、
呆れるやら情けないやら・・・
家に帰ってからもその折の出来事を反芻し、
心の中で愚痴を言い続け、
それでもおさまり切れず友達にメールをし、
翌日には夫にまで愚痴をこぼしたのでした・・・(@_@)
そして、考えました。
なぜここまで自分は怒るのか。
何が、まーさんの“怒りスイッチ”をオンしたのか。
胸に手を当てるように、じっと心の奥を覗いてみました。
すると、驚きの事実が浮かび上がってきました。
自分が心底、怒りを覚えるのはただ一つ。即ち、
「自分という存在が他者よりも一段低く見られ、
一人の人間として尊重されていないと感じた時。」
なのだと。
まあ、何ということでしょう!!!
まーさんて、こんな人間だったのですね(驚)
この年になって初めてはっきり気づきました。
逆に言うと、こんな年になるまで、
そのことに気づいていなかったという・・・汗
で、思いました。
まーさんは今、貴重な機会をいただいたなあと。
自分の“怒りスイッチ”の所在に気づけたことによって、
同時に自分の最も大切にしている価値観の一端を
確認することができたわけですから。
つまりまーさんが大切にしたい価値観とは、
「自他の差異を個性として尊重しつつ、
地球上の全ての人間がフラットな関係を築いていくこと。
そして、それによって人々が、
調和と幸福を実感していくこと。」
だったのです。
こうしたまーさんの価値観については、
これまでも当ブログで綴ってきましたし、
別の場所でも、口頭あるいは文書で語ってきました。
しかし先日、
自らの“怒りスイッチ”の所在に気づいたことで、
逆に自分の“大切にしたいこと”はその裏返しである
という事実に、改めて気づくことができたわけです。
もちろん「自分が尊重されていないことに怒りを覚える」
という、自身の全く青臭い未熟さにも
同時に気づいたわけですが・・・
ともかく。
人間、いくつになっても「そうか、そうだったのか!!!」
という発見があるものですね。
これからは、この気づきをきっかけとして、
さらに自分の価値観を行動に移せるよう心掛けると共に、
青臭い未熟な自分をも見つめ直し、
不用意に“怒りスイッチ”をオンしないよう、
改めて「平常心」「明鏡止水」を肝に銘じたい
と思う次第であります。
というわけで、
今日はふと思い出した『徒然草』(吉田兼好 著)の一節を
ご紹介いたします。
『徒然草』~第百三十段~
物に争はず、己を枉げて人に従ひ、我が身を後にして、人を先に
するにはしかず。(中略)
人に勝らん事を思はば、ただ学問して、その智を人にまさらん
と思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず、輩に争ふべからずと
いふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、
ただ学問の力なり。
≪他人と争わず、自分をおさえて他人に従い、我が身のことは後
回しにして、他人のことを先にするのに勝るものはない。(中略)
他人より勝ろうと思うならば、ひたすらに学問をして、その知
恵を人より優れたものにしようと思うのが良い。なぜ道を学ぶの
か、といえば、善行を自慢せず、朋輩と争ってはならない、という
ことを知るべきためである。優れてりっぱな職をも辞し、大きな
利益をも捨てることができるのは、まったく学問の力によるもの
なのである。≫
人との勝負ごとに、いたずらにこだわるのは良くない。
もし人より勝ろうと思うならば、
ひたすら学問の道を行くがよい。
なぜならば、学問を究めることによってのみ、
「善行を自慢しない」「朋輩と争わない」「地位や富にこだわらない」
という、相対評価を越えた、
超越した価値観を養うことが出来るからである。
吉田兼好はこのように述べています。
繰り返しになりますが、まーさんは吉田兼好の言う通り、
「相対評価ではない超越した価値観」を養うため、
今後よりいっそうその考え方を意識しつつ、
単なる「知識のため込み」ではない「修養としての学問」を、
様々な形で修めていきたいと考える次第であります。
参考文献
*『日本古典文学全集27 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』(小学館)
*『岩波古語辞典』(大野晋 佐竹昭広 前田金五郎 編)
人間いくつになっても勉強、ですね・・・
↓(◎_◎;)↓

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近頃、持病の片頭痛が止まらず、
「う~~」とか「あ~~」とか唸り続けている
まーさんであります・・・(辛)

気分はこんな感じ・・・でしょうか。
さて今年度まーさんは、小学校のPTA役員を引き受け、
ジャンケンに負けて総務委員長となりました。
その経緯については、以前当ブログにも書きましたが、
先週の金曜日・土曜日、
さっそく今年度のPTA総会・第一回理事会が行われ、
まーさんは新総務委員長として
理事会にて初の司会を務めました。
会社にしてもPTAにしても、こうした「組織活動」の場合、
既存の進め方や人の思惑等、様々なしがらみの存在で
事がスムーズに運ばないことが往々にしてあります。
まーさんも今回、この理事会において、
そのことを身を持って実感いたしました。
まあ、事がスムーズに運ばないのは
「組織活動」ではよくあることですし、
今後何らかの方法で改善していけばよいことなので
それほど強い怒りの感情は湧いては来ませんでした。
ところが――
今回の理事会において、それとは別の出来事で、
まーさんは抑え難い怒りの感情を抱いてしまったのです。
日頃から「平常心」とか「明鏡止水」とか、
覚者のような言葉を胸の内で唱えている割には、
存外簡単に“怒りスイッチ”をオンしてしまった自分に、
呆れるやら情けないやら・・・
家に帰ってからもその折の出来事を反芻し、
心の中で愚痴を言い続け、
それでもおさまり切れず友達にメールをし、
翌日には夫にまで愚痴をこぼしたのでした・・・(@_@)
そして、考えました。
なぜここまで自分は怒るのか。
何が、まーさんの“怒りスイッチ”をオンしたのか。
胸に手を当てるように、じっと心の奥を覗いてみました。
すると、驚きの事実が浮かび上がってきました。
自分が心底、怒りを覚えるのはただ一つ。即ち、
「自分という存在が他者よりも一段低く見られ、
一人の人間として尊重されていないと感じた時。」
なのだと。
まあ、何ということでしょう!!!
まーさんて、こんな人間だったのですね(驚)
この年になって初めてはっきり気づきました。
逆に言うと、こんな年になるまで、
そのことに気づいていなかったという・・・汗
で、思いました。
まーさんは今、貴重な機会をいただいたなあと。
自分の“怒りスイッチ”の所在に気づけたことによって、
同時に自分の最も大切にしている価値観の一端を
確認することができたわけですから。
つまりまーさんが大切にしたい価値観とは、
「自他の差異を個性として尊重しつつ、
地球上の全ての人間がフラットな関係を築いていくこと。
そして、それによって人々が、
調和と幸福を実感していくこと。」
だったのです。
こうしたまーさんの価値観については、
これまでも当ブログで綴ってきましたし、
別の場所でも、口頭あるいは文書で語ってきました。
しかし先日、
自らの“怒りスイッチ”の所在に気づいたことで、
逆に自分の“大切にしたいこと”はその裏返しである
という事実に、改めて気づくことができたわけです。
もちろん「自分が尊重されていないことに怒りを覚える」
という、自身の全く青臭い未熟さにも
同時に気づいたわけですが・・・
ともかく。
人間、いくつになっても「そうか、そうだったのか!!!」
という発見があるものですね。
これからは、この気づきをきっかけとして、
さらに自分の価値観を行動に移せるよう心掛けると共に、
青臭い未熟な自分をも見つめ直し、
不用意に“怒りスイッチ”をオンしないよう、
改めて「平常心」「明鏡止水」を肝に銘じたい
と思う次第であります。
というわけで、
今日はふと思い出した『徒然草』(吉田兼好 著)の一節を
ご紹介いたします。
『徒然草』~第百三十段~
物に争はず、己を枉げて人に従ひ、我が身を後にして、人を先に
するにはしかず。(中略)
人に勝らん事を思はば、ただ学問して、その智を人にまさらん
と思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず、輩に争ふべからずと
いふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、
ただ学問の力なり。
≪他人と争わず、自分をおさえて他人に従い、我が身のことは後
回しにして、他人のことを先にするのに勝るものはない。(中略)
他人より勝ろうと思うならば、ひたすらに学問をして、その知
恵を人より優れたものにしようと思うのが良い。なぜ道を学ぶの
か、といえば、善行を自慢せず、朋輩と争ってはならない、という
ことを知るべきためである。優れてりっぱな職をも辞し、大きな
利益をも捨てることができるのは、まったく学問の力によるもの
なのである。≫
人との勝負ごとに、いたずらにこだわるのは良くない。
もし人より勝ろうと思うならば、
ひたすら学問の道を行くがよい。
なぜならば、学問を究めることによってのみ、
「善行を自慢しない」「朋輩と争わない」「地位や富にこだわらない」
という、相対評価を越えた、
超越した価値観を養うことが出来るからである。
吉田兼好はこのように述べています。
繰り返しになりますが、まーさんは吉田兼好の言う通り、
「相対評価ではない超越した価値観」を養うため、
今後よりいっそうその考え方を意識しつつ、
単なる「知識のため込み」ではない「修養としての学問」を、
様々な形で修めていきたいと考える次第であります。
参考文献
*『日本古典文学全集27 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』(小学館)
*『岩波古語辞典』(大野晋 佐竹昭広 前田金五郎 編)
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