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「臨死体験の本」と「禅の教え」

『喜びから人生を生きる!』(アニータ・ムアジャーニ著)という本があります。

喜びから人生を生きる! ―臨死体験が教えてくれたこと喜びから人生を生きる! ―臨死体験が教えてくれたこと
(2013/06/18)
アニータ・ムアジャーニ

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本書は、当ブログでリンクさせていただいている「Bliss of Gaia」の凛様の記事で、昨年紹介されていました。まーさんはその内容に惹かれてすぐさま購入したのです。
しかし・・・
あれからどれ程の時が過ぎたでしょうか・・・
本書は見事に「積読」になったまま、部屋の片隅に打ちやられていたのでした(凛様ゴメンナサイ・・汗)

しかし先日、本棚の整理をした際、なぜだかは分かりませんが、手に取ったこの本がどうしようもなく気になり始めました。
そして、とうとう読み始めたという次第です。
本書は平易な文章で書かれており、とても読みやすく、ほんのちょっとした隙間時間を使い、ちょこちょこと読み進めることができました。

内容は、思った通り非常に示唆に富んでおりました。
そして現在、我々の周りで起こっている新しい潮流・新しい思考法(というか“生き方”でしょうか)と、ものの見事にシンクロしていることにも驚きました。





本書は、シンガポール生まれ・香港育ちのアニータ・ムアジャーニという女性による、驚くべき末期癌治癒のレポートです。彼女は癌に侵され危篤状態に陥りますが、その際いわゆる“臨死体験”をします。この“臨死体験”中の悟りがきっかけとなり、この世に再び舞い戻って来た後は、驚異的な早さで彼女の身体から癌が消滅し、現在は健康で幸せな日々を送っているという、常識では計り知れない事実が綴られています。

彼女は幼少期から多文化・多言語の中で育ち、それがゆえに自らのアイデンティティの揺らぎに、密かに苦しみ続けたそうです。両親からの文化的宗教的抑圧は強く、しかし彼女はそれに屈することなく最良のパートナーと出会い結婚します。ところがその後まもなく、彼女は癌に侵され、病状は悪化し、遂に生死の境をさまよい、臨死体験をするに至るのです。

肉体を離れた彼女は、直線的時間軸からの解放を経験し(過去・現在・未来が同時存在する状態)、”私“が宇宙の中心であり全てであることを理解し、人はみな一つで分離した我々はやがて全体へと戻る(いわゆるワンネス)ことを知ります。
そして、自らの病の原因は「恐れ」にあったことを悟り、それが分かった今、この世に戻ってくれば必ず癌は完治すると認識し、肉体のある世界へと生還を果たしたのです。そして彼女が思った通り、末期癌は医療的措置無しに急速に治癒していきました。





アニータはは言います。

「なぜ私が癌にかかったと思うか」という質問の答えを一つの言葉にまとめれば、”恐れ“ということになるでしょう。
 では、私は何を恐れていたのでしょうか?何もかもすべてです。たとえば、失敗すること、嫌われること、人をがっかりさせること、十分じゃないことなどを恐れていました。もちろん、病気も恐れていました。特に癌とその治療法に恐怖感を抱いていました。私は生きることを恐れ、死ぬこともひどく怖がっていたのです。
 恐れはとらえどころがなく、気づかないうちに少しずつ忍び寄ります。おそらくほとんどの人が、幼少期から恐れるように教えられてきたのではないでしょうか。生まれつきそうだったとは思えません。

身体の機能が止まった時、私がいた向こう側の世界は、恐れでゆがんでない私自身の素晴らしさを見せてくれました。(中略)
そのような拡大した意識の状態で、私は、いかに自分自身につらくあたり、批判ばかりをしていたかを理解しました。そこでは、私を罰する人は誰もいませんでした。私が許さなかったのは他人ではなく、自分だったのだと、やっとわかりました。私を非難したのも、私が見捨てたのも、私が十分愛さなかったのも私自身だったのです。(中略)私はその時、宇宙の美しい子どもとして自分のことを見ていました。私は存在するだけで、無条件の愛を受ける価値があったのです。





引用が長くなりましたが、現在肉体をもってこの地球に生きる我々は、アニータの言うように善悪・正邪といった二元的価値観、あるいはそれぞれの生育環境を背景とする価値観に縛られ、いわゆる自らの生きる指針や存在の意味を外の世界に求めようとすることが多いように思います。
しかし彼女は、本来の我々はそうした存在ではないというのです。我々は誰しも存在そのものが「完璧」であり「宇宙」であり「全てと一体」であり「愛」であると――彼女はこれを「無限の自己」と表現しています。

彼女はこの臨死体験から得た自らの感覚を人々に伝えるために、非常に苦心して言葉を選び、言葉にならない境地を何とか表現しようと最大限の努力を払っているように見えます。

その中で、特にまーさんの心に残ったのは「許す」という言葉です。

では、許すとは一体どういうことでしょうか?私は、許すという言葉を、自分や他人への共感、無条件の愛、思いやりという言葉に置き換えたいと思います。今の私は、誰かを判断したり、許しを求める必要性を生み出すかわりに、全体の中で一人ひとりが演じている多種多様な役割を大切にし、それに敬意を払っています。





自分への愛があふれていれば、他者への愛も自然と生まれてくる。逆に言えば、自分への愛がない者に、他者への愛は生まれてこない。我々がポジティブ・ネガティブ、善悪、プラス思考・マイナス思考と二元的にに認識しているものは全て、完璧で調和のとれた全体の一部にすぎない。だから我々の心に例えばネガティブなマイナス思考が起こったとしても、それを否定する必要はない。それを批判せずに受け入れて、ただ自分の中を流れるのを許す(つまりそういう自分をも無条件の愛をもって「許す」)ことが肝要なのである。





アニータの言葉は深く、そして無限の広がりを持って心に響きます。生きることが楽になり、これまで頑丈にまとっていた堅い鎧が少しずつはがされていくような、ゆったりとした解放感を味わうことができます。

しかし、言葉で書かれたものをマインドでなくハートで感得するのは、容易なことではありません。
「理解」でなく「実感」として、彼女の言葉を自らの心に落とし込み、それを血肉として持続させるのは大変に難しいことです。「分かった!」と思った次の瞬間「分からない・・」に変化している、そんなもどかしさを感じます。






と、このようなことを考えていて思い出したのが、日本における「禅の教え」です。
アニータも本書の中で「禅のような性質を引き出して」と触れていますが、まさにこのアニータが述べていることは、「内面の本性に立ち返る」という禅宗の教えに通ずるところがあるように思います。


禅宗においては、

文字や言葉で教えることを避けて座禅を進める理由として(中略)自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになるからであると説く。
(wikipedia「禅」より)


のであり、これはまさしく、外部に自らの人生を委ねるのでなく、自分の内部を深く見つめるべきと説くアニータの言葉を想起させます。

沢庵和尚は

実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には座禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できる。
(同上)


としています。





これまでまーさんは、仏教でいうところの「自分の内奥が仏である」との言葉が、いまひとつ実感として腑に落ちないところがありました。しかしアニータの言葉を読んで、わずかにではありますが、その意味するところが少し心に落とし込まれた気がいたします。また同時に、座禅修行によって概念の固定化や分別といった「とらわれ」を離れようとする禅宗の教えも、理屈ではなく感覚として、初めて理解できたように思います。





アニータは本書のあとがきにおいて、「これは何度言ってもいい足りないくらいですが、自分自身を楽しみ、自分や人生についてあまり深刻に考えすぎないでください」と述べています。

“毎日たくさん笑うこと”
“日々の問題をユーモアや愛のベールを通して眺めること”

我々自身が幸せになることが―いやそれだけが―この世で成すべき我々の仕事なのだと、いつも心に留めおきたいと思います。




追記
当ブログにリンクさせていただいている「New Order」のGOMA28様が、この『喜びから人生を生きる!』の感想を記事にしていらっしゃいます(→記事1記事2)。美しく鋭く、知のタペストリーともいえる文章に、暫し圧倒されます。




自分を「許す」こと。「ありのまま」を愛すること。
↓(*'▽')↓
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No title

こんばんは。
許しのプロセスは、ダライ・ラマが「許しとは自分自身を自由にすること」と仰っていたそうで、私はヨガのレッスンで教えてもらいました。相手を許すことで、怒りや憎しみ、悲しみから自分を解き放つことであると。
内なる仏とは、ヨガで言うところのアートマン(=真実の自己、小宇宙)のことでしょうか。人は誰でも自分のなかに美しく光る玉を持っているんだそうです。残念ながら、私はまだ感じたことはありませんが。

Re: No title

yuccalina様

おはようございます^^

「許しとは自分自身を自由にすること」というダライ・ラマの言葉、
含蓄がありますね。
まさにその通りだなあと思います。
紙に書いて、壁に貼っておきたいような言葉ですv

仏教の目指すところは「無我」の境地。
とすれば「仏」とは何なのでしょう?
やはり「個」「我」を越えた、「宇宙と一体となった私」「宇宙そのものの私」
「無限に広がり宇宙を包み込む私」ということになるのでしょうか。

「自分の中の美しく光る玉」
心をを深く内観し、
いつかその存在に触れてみたいと切に思います。

No title

まーさんさんが、この記事を書こうと思ったその「想い」に仏は現れています。

何もジャッジせず、ただそのままに、表現されている時、それは、内なるものの外への現れなのでしょう。

だれもが、そうして生きているのですが、時折ちょっと迷う、それだけだと思います。

赦すとはかなり徳の高い行為だと思います。

臨死体験という言葉を聴いて
思わずキューブラー・ロスの『臨死体験』を思い出しましたが、
これはまた違う本なのですね。

ロスの本は、一度死んで、生還された人のリポートですが、
これを読んで、死期の迫った遠藤周作が
とても励まされた、ということをどこかで読んだことがあります。

まーさんがおっしゃる「赦し」ということですが、
わたくしも、この「赦し」ということにひどく悩まされて、
考え続けて来ました。

お読みになって、臨死体験をして癌が治った方というのは
特殊な例ですよね。

あるいは古くは聖フランシスコのこういった臨死体験を経て
世界のからくり、というましょうか自分がこの世に生まれた
使命を感じ、布教にでた、ということです。

禅も教えも「瞬間、瞬間を生き切る」
「執着を残さない」という素晴らしい考え方なのです。

ただ、最近、わたくしが思いますに、
命が今生かぎりのものでないならば、
そういったプロセスに至るまでの
過程はひとそれぞれではないか、と思ったりするのです。

最近、一番偽善的だ、と思うことに、
すぐ、何でも解決してしまおう、として
「赦す」ふりをして自分で、その問題は解決したんだ、
自分は一歩、進んだんだと思ってしまう事なのではないか、
と思っています。

わたくしは、徹底的に人を憎み、憎み切ったあとに
本当の赦しという行動がでると思うのです。

ですから、自分の気持に嘘偽りをついて
妙に善人ぶるよりは、いっそのこと自分に正直になって
わがままだったり、悪意を抱いていて、
そのまま死んでしまっても、それはそれでいいとも
思うようになりました。

というのは、そういう自分はまだ、「悟り」の過程には
至っていないのです。

審議のほどは定かではありませんが、
仏陀も前世では大悪人で死んだ時期もあったと。

真理を知るには、明るい面だけでなく、
暗くて醜い、ネガティブな面も見なければ
決して物事を把握したことにはならないのではないか、
と思っているのです…。

Re: No title

まるまるまるた様

おはようございます。
コメントありがとうございます!!

> まーさんさんが、この記事を書こうと思ったその「想い」に仏は現れています。

そうなのですね^^このお言葉、ありがたく胸に刻んでおきたいと思います。

> 何もジャッジせず、ただそのままに、表現されている時、それは、内なるものの外への現れなのでしょう。
> だれもが、そうして生きているのですが、時折ちょっと迷う、それだけだと思います。

なるほど――その通りですね。
いつもながらの卓見、感服いたします。
まるた様は本当に、
「何もジャッジせず、ただそのままに」を体現されていると思います。
しかし世の中の多くの人々にとっては(ワタクシも含めて)、
このスタンスが中々に難しいものです。

”無為自然”というか”如水”というか、
そのように生きられたらと思います。

Re: 赦すとはかなり徳の高い行為だと思います。

sadafusa様

いつも示唆に富んだコメントをいただき、ありがとうございます!!

> 臨死体験という言葉を聴いて
> 思わずキューブラー・ロスの『臨死体験』を思い出しましたが、
> これはまた違う本なのですね。
>
> ロスの本は、一度死んで、生還された人のリポートですが、
> これを読んで、死期の迫った遠藤周作が
> とても励まされた、ということをどこかで読んだことがあります。
>
ロスの本は有名ですね。
遠藤周作のエピソードは知りませんでした!

sadafusa様の仰ること、とてもよく分かります。
アニータの言葉でワタクシが一番共感したのは、
「”自分を”許す」
という考え方です。

これまでのワタクシは、
「わがままな自分」「すぐ腹を立てる自分」「できない自分」
「くよくよする自分」「人目を気にする自分」「驕っている自分」
「他者を自分の価値観で動かそうとする自分」
などなど、本当に自分のダメな部分ばかりに着目し、
勝手に落ち込み勝手に拗ねて、いつも劣等感やネガティブマインドに
支配されてきたように思います。
これはアニータと同じで、生育環境による価値観の縛りが
非常に強かったせいでもあると思いますが、
本書を読んで、
「そんなダメダメな自分のことも許していいんだ!」
「そんなダークな自分もひっくるめて”完璧な無限の存在”が私なんだ」
と改めて心の奥底で理解できた(あるいは確認が取れた)気がして、
とてもすっきりいたしました。

その理屈からすれば、どんな凶悪犯罪を犯した者であっても
いわゆる「死んでから地獄に落ちる」ということはないわけであって、
死後の世界を垣間見てきたアニータも
「この世で悪人だったから死後は罰せられる、ということはない」
とはっきり言っております。
つまり肉体をもってこの3次元で生きることは、
全てが「魂の貴重な経験」であり、
宇宙の法則から言えば、そこに善悪などのジャッジは入る余地がないということです。

「どんな人の心にも内なる仏がある」とは、
「どんな人の心にも完璧な宇宙が存在する」ということであり、
その完璧な宇宙(どんな自分も自分。愛する自分)という事実に気づくか気づかないかで、
生きることが苦となるか楽となるかが決まる、
とアニータは言いたいのでしょう。

「どんな自分をも許す」
という言葉は、これからのワタクシの生き方における
大きな支柱になっていくと思います。

なるほど。

ありがとうございます。

ていねいに解説してくださって、感謝してます。
自分を「許す」なのですね。

他人ではなく。

それなら話はわかります。
わたくしは、どーしても、どーしても、どーしても
赦すというか、恕すといういうか、許すというか、
とにかく、今生では絶対に、絶対に、絶対に
ゆるせない人がいます。

でも、おっしゃる段でいけば、
そういう不寛容な自分ですら、
インテグレートされると、ワンネスになる、
大きな存在の貴重な経験というか、記憶の一部に
なりえる、ということですね。

なんか、一条の光明が射した気分です^^

Re: なるほど。

sadafusa様

こちらこそ返信をありがとうございます!

どうしても許せない人・・・
がいる自分もOKなんだ。
そういう自分を否定する必要はないんだ。
と考えると、
すごく力が抜けて、楽になって
仰るようにワタクシも本書によって
「一条の光明が射した気分」になりました。

ワンネスってよく分からなかったのですが、
この本によって(少しではありますが)
実感を伴って理解できたという気がしますvv


No title

こんにちは。
読まれたのですね)^o^(

ベストなタイミングでベストな情報がやってくるのだと思います。
一時期ブログやめられるのかな?と心配だったので、また復活されていて嬉しいです。

埼玉県民の日、知りませんでした〜。
七年ぐらい住んでいたのに。

Re: No title

凛様

ご無沙汰しています。
凛様にご紹介してもらった本、
ようやく読みました・・汗
後半が特に印象的でした。
時々読み返して「自分にとって大切なことは何か」
を思い出すようにしたいです。
仰るように、
ベストなタイミングでベストな情報が来る、のですね!
それはとても実感します。

埼玉県民の日。県内の学校にでも通っていないと、
なかなか意識する機会がありませんね(笑)
この日は、なぜか県民こぞってディズニーランドに行くらしく、
「(埼玉の人々で)すごく混んでた~~」
と、ママ友は言っていました(^^ゞ

プロフィール

まーさん

Author:まーさん
息子と夫と私、考え方も行動もてんでバラバラな3人で暮らしています(笑)でも仲良しです。
音楽、映画、読書が好き。芸術鑑賞、外国語、旅行も好きです。ゆ~る・じゃぱんでは、日本大好きまーさんが暮らしのに漂う日本の香り・日本文化をゆる~く綴っていきます。

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