スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「奈々子に」――そして芥川賞作家・又吉直樹さんのエピソード

昨日。
息子の塾のテキストを開くと
そこには
まーさんの敬愛する
吉野弘の詩がありました。

「奈々子に」という詩です。

若い頃、
この詩に強い衝撃を受けたこと
ふと思い出しました――




唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。





子どもの頃
まーさんは周囲の期待に応えるべく
無意識のうちに頑張りを重ね、
結果として
自分を、本当に駄目にしてしまいました――

そんな“潰れた自分”に改めて気づかせてくれたのが
この「奈々子に」
だったのでした。




今は当時と異なり、
子を持つ親として
この詩が切実に胸に突き刺さります。

まーさんは
自分の息子に多くを期待しない自分でいたい。
過度な期待で彼を駄目にしてしまうことは
何としても避けたい。
切実にそう思っています。

しかし果たしてそれは、
本当に成し遂げられているのでしょうか。
知らず知らずのうちにワタクシは
自分の不必要な期待を
彼に押し付けていないでしょうか。

子どもはいつだって
大好きな親の期待に応えようと
お父さんお母さんを笑顔にしようと
必死に生きている。
だから、
子に対する親の過剰な期待は
けなげな彼らを疲弊させ、苦しめる――




お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう

自分があるとき
他人があり
世界がある。





そう、
ワタクシが息子にあげたいもの。
それは
≪自分を愛する心≫
それだけ――

なのに実際は、
自分の価値観に照らし
若干の期待を心の片隅に抱きつつ
それに見合わない彼の言動を
容赦なく頭から否定する
そんなことを繰り返しているのではなかろうか・・・




昨日
「奈々子に」を読み、
――この詩を読むときはいつものことですが
涙が、すっとこぼれました。




お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。





≪自分を愛する心≫――
本当に、
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
と痛感します。

しかし人間にとって本当に必要なものは、
もうこの
≪自分を愛する心≫
これだけしかない、と
今も昔も強く思うのです。




話は飛躍しますが
先日16日、芥川賞・直木賞受賞の発表があり
お笑い芸人の又吉直樹さんが
処女作『火花』で
芥川賞を受賞されたことが報じられました。

昨日の読売新聞一面のコラムは、
朝刊・夕刊とも
この又吉さんに触れての内容でした。

夕刊「よみうり寸評」では
生まれつき肺の弱かった又吉さんが
小学生の時にサッカーを始め、
体力・技術とも
他の子にひどく劣っていたにもかかわらず、
毎日一人夜遅くまで練習し続けた結果、
何年か後、強豪チームの選手として
高校総体に出場した
というエピソードが紹介されていました。

芥川賞受賞作『火花』も
執筆はいつも仕事を終えた後だったそうで、
受賞後のインタビューでも、彼は
「芸人は100でやって、
それ以外の時間に書く姿勢を崩さないようにしたい」
と語ったそうです。

又吉さんにとって
サッカー・お笑い・執筆は、
きっとどれも
やむに已まれぬ自己の衝動から起こった活動であり
それについてのたゆまぬ努力は
彼にとって苦行ではなく
むしろ快楽や自己解放につながっている、
そんな印象を受けました。




しからば。
人間にとって「何かをなしとげる」「夢を持つ」行為、
例えば又吉さんのように
サッカー・お笑い・執筆に邁進する行為とは
一体何を意味するのでしょうか。

ここで先の
≪自分を愛する心≫の話に繋がって来るのですが、
自分を愛するためには
自分を大切に思い
自分の心に従って生き
自分を楽しませ
自分の喜びを大事にし
自分の全てを受け入れる――

そんなことが絶対不可欠でありましょう。

しかしながら世間一般において
「何かをなしとげる」「夢を持つ」
という言葉が使われる時、
そこには本来
夢の成就に付随しているはずの
≪自分を愛する心≫
例えば“純粋に自分を楽しませる”
といった感覚はあまり存在せず、むしろ
“苦しみを伴うような苦い”感覚が
背後に張り付いているように感じてしまうのは、
ワタクシだけでしょうか・・・?

つまり、又吉さんのように
何かやむに已まれぬ衝動に突き動かされて
必然の結果として努力をし続ける――
これは確かに
≪自分を愛する心≫
に深いところで通じるように思います。

が、よく大人が子どもに要求しがちな
「何かをなしとげなさい」「夢を持ちなさい」
というお定まりの題目には、
何というか
それとは違う苦行的なものが潜んでいるように
思われてならないのです。

この時大人が言う「夢の成就」とは
つまり「立身出世」的な意味も含んでいるのであって、
これを陰に陽に子ども達に刷り込み、期待をかけることは、
まさしく
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
自分を駄目にしてしまう

ことそのものではないかと、思うのです。




そしてこうした事例は、
何も子ども達に限ったことではありません。
我々大人もどうかすると
「夢を持たねば」「何かをなしとげねば」
という焦燥感を抱くことがあるのでは、
というのがワタクシの考えです。

それは当然のことながら、
幼少時からの刷り込み、つまり
「生まれたからには夢を成就させ、立身出世すべき」
といった暗黙の価値観が作用していると思います。

「大きな夢を持っていないこと」
「立身出世できていないこと」が
まるで自分の駄目さ加減の証拠でもあるかのように、
自己否定し続ける大人たち。

実はまーさんもこの考えの中に、
未だ片足を突っ込んでいる感は否めません。
情けないことですが・・・

結論から言えば、
「そんな≪自分を愛する心≫から程遠い感情は
一刻も早く捨て去るべき」
であり、
これからを生きる子どもたちにも
「≪自分を愛する心≫から乖離した夢など
もつ必要はない」
と強く言いたいです。

「夢」とは自分が楽しくなるためのツール。
それが人によっては
「サッカー選手になりたい!」
かもしれないし、あるいは
「美味しいスイーツを心ゆくまで食べ歩きたい!」
かもしれません。

後者は明らかに
「立身出世」の概念からはかけ離れていますが、
そんなことはどうでもよろしい!!

ようは自分の心に素直に向き合い、
やりたいことは何か。
自分はどう生きたいか。
そのためには何をどう行動したらよいか。

これをひたすら考え(あるいは思いついたらすぐ)
実行に移すことが肝要ではないかと
まーさんは思うのです。




こう書いてくると皆さま、
もうお気づきかと思いますが
まーさんは常に
「自分が何をしたいのか」
「自分には成し遂げたい夢があるのか」
と考えあぐね、
時として行き場のない
もやもやした焦燥感に駆られているのです・・・

本当に修行不足の自分を露呈するようで
お恥ずかしいかぎりですが・・・

ですからワタクシ、常に刹那を意識し、
何事にもとらわれず、
今一瞬の己の感情に従い行動することを
一つの行動指針にしているのでありますが、
やはりこう、何か物足りない。
まだ「やりきってる感」が無いと申しましょうか・・・

多分、作家の宇野千代さんのように
「思い立ったらもう体が動いちゃってるのよ~~」
って、後先考えず行動していたら
そんな焦燥感にさいなまれることも
無いのかもしれません。

やはり
「家族がいるから」とか
「先立つものが・・・」とか
「常識的に見て」とか
さまざまな呪縛によって真の解放には至っていない、
というのが本当のところかもしれません。




皆さまはいかがでしょうか・・・

人生は一度きり。
残りの人生、
どう生きてどう死ぬか――
まーさんにとってこれが
目下の最重要課題となっているのであります。


IMG_1914_convert_20150718180741.jpg
もう駄目にゃん・・・暑いにゃん・・・
アタシの好きにさせてちょうだい・・・





にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

ポチっと応援いただけると嬉しいです・・・
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

簡単なようで難しい

まーさんは親御さんに過剰な期待を
されて育った人だったのですか?

わたくしは、親に「自分」というものを
常に否定されて育ちました。

親には常に
「おまえなんかどうせ○○したって、無駄」
「○○のくせに」
ばかり言われて育ちました。

親の期待というものは
花にやる水や肥料と同じもので、
「適度」にやるのが正しいです。
「自分を愛する心」
つまり「自尊心(悪い意味ではないです)」を育てるための。

葉を繁らせ、花を咲かせ、
かつ、根を地中に深く張り巡らせるため。

わたくしはお恥ずかしいことですが、
何か新しいことにチャレンジするときには
かなり、動揺してしまうのです。

しかし、スポイルするのはいけないことですが、
幼少時に適度な親の温かい「はげまし」があったなら、
と思います。

私は、娘に対しても、息子に対しても、
いろいろなことをさせましたが、
それは畢竟「おじけることなく、何かを楽しめるため」
に経験値を高めるためにさせてきたような気がします。

体操教室へ行かせましたが、
それは、体を使うことがある程度「楽しい」と思えるように
させたかったまでのこと。

ま、それでも、決して完璧な親ではなかったですが。

しかし、自分のことに対して、
どれだけ努力しても、自分を認められない自分がいます。

エルサではないですが、
「ありのまま」の自分が受け入れられないのです。

なかなか人生は苦しいものですね。

No title

こんにちは^^

全面的に同感です!

子供にとって、親は、半分神様みたいなものですから、
特に子供のうちは、肯定されながら育てられるべきだと思います。
子供のうちに、健全な自己愛が育ってないと、
原罪意識を抱えるようになり、
大人になってから、色々と苦労が多いですね。
何かを達成したり、より優れた人間になれば、
自己肯定感が得られると思って、
やりたくない無駄な努力をしたり・・・

機能不全家庭で育った私は、
存在価値を全否定されても、それが当然だと感じるほど、
自己否定の固まりだったので、
そういう努力に明け暮れていましたが、
ある幸運な出会いによって、自己愛を感じることができるようになりました。
しかし、これは、自分から見て半神的に見える人から、
かなり長い間、好意的・肯定的に接してもらえないと、
単なる観念ではない、本当の自己愛や自己肯定感は得られないので、
条件としては結構厳しく、
私の場合は、かなりラッキーだったなと感謝しています。

人は、自分に与えられるものしか、他者に与えられないと思います。
なので、自己否定・自己嫌悪を抱えながら、
なんのわだかまりも無く、人に愛と敬意を持って接するということは、
(宗教やスピ系の人は色々と言っていますが)
実際は無理だよな~と思ってしまいます。

Re: 簡単なようで難しい

sadafusa様

おはようございます。

過剰な期待を受けて育つのも辛いですが、
逆に否定され続けて育つのも、とても辛いことですね――

「親の期待というものは
花にやる水や肥料と同じもので、
「適度」にやるのが正しいです。
「自分を愛する心」
つまり「自尊心(悪い意味ではないです)」を育てるための。」
本当にその通りですね。
自己肯定観を育てるためには、
やはり適度な期待・温かい励ましが必要だとワタクシも思います。
”適度な”のさじ加減がまた、非常に難しいのですが・・・(^^ゞ

sadafusa様の娘さんと息子さんは
貴ブログにてご紹介されるエピソードを拝見いたしますと
本当にお母様の温かい後押しを惜しみなく受けて
素敵にお育ちになったのだなあ、と感じます。
ワタクシもそのように息子に対し、
怖気づくことなく人生を楽しめる人になってもらえるよう
親としての自分を育てていかねばと痛切に思います。

「ありのまま」の自分が受け入れられない・・・
ワタクシも同様です。
この自分に対する縛りはどうしたら解けるのでしょう??
どこか煮え切らない自分がもどかしい限りです。

Re: No title

Korva様

おはようございます。

Korva様にいただいたコメント、
もう全く最初から最後まで頷くことばかりです。

「子供にとって親は半分神様のようなもの」
「健全な自己愛が育っていなければ無駄な努力を重ねてしまう」
非常に思い当たる節があります。

Korva様も子供の頃、家庭的に非常に苦労されたというお話は
以前にも伺ったかと思いますが、
その後、とても幸運な出会いに恵まれて自己愛を得ることが出来た
というエピソードをコメントにて読ませていただき、
ワタクシ、お話を伺うだけでも本当にホッとするような
温かい安心をいただいたような気持ちになりました。

「自己否定・自己嫌悪を抱えながら人に愛をもって接するのは難しい」
とのご指摘、まさにその通りだなあと思います。
人間は多少なりとも自己肯定観を持っていなければ、
他者に対して愛と敬意をもって接することは不可能ですよね。
吉野弘の「奈々子に」にあるように
自分があってこそ、他者があり世界がある
のだと思います。
自分を愛する心が、やはりすべての出発点なのですね。



No title

こんばんは。

子供に期待し過ぎというか、知らず知らずのウチに自己実現を押し付けてるパターンはとても多そうですよね。私の敬愛するヨギー、アイアンガー師の言葉に「教育とはその人の最良を引き出すこと」と言うのがあるんですが、子供にとっての最良が引き出されて欲しいと望むことは、決して悪いことじゃないと思うんです。

さて、夢にしろ目標にしろ、どうしても結果ばかり重視ししがちですが、上手く行っても行かなくても、その過程における経験は財産です。そうして、既に得ている(若しくは与えられた)財産に、気付いてない場合もありそうな気がしますよ。

Re: No title

yuccalina様

こんにちは^^

「教育とはその人の最良を引き出すこと」
素敵な言葉ですね。まさにその通りだなあと思います。
子どもにとっての最良を引き出してあげたい。
これこそが親の切なる願い、ですね。

夢についてのyuccalina様のお言葉、心に響きました。
結果ではなくプロセスーーそうなんですよね。
そして、
「既に得ている(若しくは与えられた)財産に、気付いてない場合もありそうな気がしますよ」
確かにたしかに!!
私は私のままで完璧。ほかの何かになる必要などない。
≪自分を愛する≫ってつまりこういうことですよね。



No title

わたしも「いいこ」で育ってきました(笑)

期待にこたえようとしましたが、健康上の理由で、すべてぶち壊し・・・。

しかたないなぁ、の人生です。

自分を愛するというか、自分をそのまま認めるということは、なかなか難しいことだと思います。

それは、自分の理想を「聖人君子」においているからでしょう・・・意識はしていないとは思いますが・・・。

期待にこたえるとは、ある意味「スーパーマンになる」ことなのだと思います。

だれもが、その理想(聖人君子・スーパーマン)といまの自分を無意識に比べているので、自己否定や罪悪感から逃れることが難しくなってしまうのかもしれませんね。
(だって、到達するのは無理なんだもん(笑))


>やりたいことは何か。
>自分はどう生きたいか。
>そのためには何をどう行動したらよいか。

このうち一番大切なのは、「自分はどう生きたいか」だと思います。
それが決まれば、後の2項目は勝手についてくるでしょう。
どう生きたいかは、自分の人生のあらゆるシーンでの基準になるからです。
行為と結果は、なるようになる、程度のことで・・・(笑)・・・さもないと罪悪感・自己否定の元になるから。

「自分がどう生きたいか」と同じようなキーワードとして、「自分が住みたい世界」を考えてみる、というのも一つの手段です。

そのような世界にしていきたい、そのような世界に生きる、という「志」を自分の中に見つけると、それが想いとなり基準になるでしょう。

私の理想とする世界は、それぞれの人が自分のオリジナルの個性を存分に発揮して生きている世界です。
その世界で、お話ししながらコーヒーを一緒に飲んでいるだけで幸せだと思うのです。


あと、老婆心ながら・・・

すべての中に「愛」(想い)は含まれています。
期待をしている親 にも、 期待にこたえようとしている子供 にも・・・この社会で生きてほしい、親を安心させたい・・・

ただ、どうしても、期待に応えた・応えられなかった、という、行為と結果にフォーカスしてしまうので、心の奥に「罪悪感」や「自己否定」
として残ってしまうのです。

「愛」(想い)が、最初にあった・・・そこにフォーカスすればそれは無くなっていくはずなのです。


幸せなご家族であり続けますように♪

Re: No title

まるまるまるた様

まるた様。
すごいコメントいただけてうれしいデス!
ありがとうございます^^

まるた様はもはや住んでる世界が違うという気がします。
仰っていることが、神レベルです。
覚者というか・・・。

「自分ではない何か」になる必要はない。
では「自分はどう生きたいか」
それを考えるときに
「自分が住みたい世界を考えてみる」
というのは目から鱗、でした。
なるほど~~そう言われてみればその通りですね。

”そのような世界にしていきたい、
そのような世界に生きる、
という「志」を自分の中に見つけると、
それが想いとなり基準になる”
すごくよく分かります。そして
”それぞれの人が自分のオリジナルの個性を
存分に発揮して生きている世界”
が理想と仰るまるた様の考えに
ワタクシも全く同感です。
そんな世界に生きる自分を
構築することを考えればよいわけですね。

う~~~~む・・・すごい・・・
やってみます、今から。
なんか楽しくなってきました!!!


プロフィール

まーさん

Author:まーさん
息子と夫と私、考え方も行動もてんでバラバラな3人で暮らしています(笑)でも仲良しです。
音楽、映画、読書が好き。芸術鑑賞、外国語、旅行も好きです。ゆ~る・じゃぱんでは、日本大好きまーさんが暮らしのに漂う日本の香り・日本文化をゆる~く綴っていきます。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。