『かぐや姫の物語』
いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。
野山にまじりて竹をとりつつ、よろずのことにつかひけり。
名をば、さぬきのみやつことなむいひける。
昨日、映画「かぐや姫の物語」を観ました。
原作『竹取物語』を驚くほど破綻なく換骨奪胎し、高畑監督の、人間に対する深い愛情が強く感じられる作品でした。以下、感想を少々述べたいと思います。
【原作に忠実でもあり、完全なオリジナルでもある】
あまり知られていないことですが、原作『竹取物語』は「人間賛歌の物語」です。
ご存じの通り我々人間は、仏教で言うところの八つの苦(生老病死に加え、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)を背負って生きています。人はこの世にいる間、愛や恨み・嫉妬や物欲に捉われ、病に苦しみ、死の恐怖に怯え、つまりは常にそうした悩みに翻弄され続けて生きているといっても過言ではありません。しかし、そのような苦しみのさなかにも、我々は季節の移ろいに心動かされ、生きとし生けるものとの深い愛に喜び、時にはこの世のあらゆるものとの微かな縁に驚きを見つけ、魂が肉体を離れるその瞬間まで、激しく静かにこの世を謳歌する生き物なのです。
『竹取物語』の作者は、そんな人間の、時には醜く生々しい・時には美しく愛おしい生の在り方に限りない愛情を注ぎ、人間存在そのものが持つ「おかしみと哀しみ」を、かぐや姫という超越した存在との対比で描いていきました。
原作のかぐや姫は最初、「月の人」として破格の美しさを持つものの「人間」らしい感情をいっさい持たない冷たい人物として描かれています。しかし、五人の求婚者や帝とのやり取りを通じて、彼女は徐々に人間性を獲得し、やがて本来の居場所・月に戻らねばならなくなる頃には、すっかり一人の人間・地球人として喜怒哀楽を理解し、親子愛や男女愛に心を揺らす女性へと変貌を遂げるのです。
だからこそ物語の最後、月からの迎えに対し「人間」としての毅然とした態度をとりつつも、運命のままに月へと戻っていかねばらないかぐや姫と、周囲の人々の哀しみが、読み手の心に強く迫って来るのです。
”人間とは、何と哀れで愛おしい存在なのだろう”と。
このように、原作におけるかぐや姫は、
≪月の人→人間の女性→月の人≫
という変遷をたどりますが、映画「かぐや姫の物語」では、そこに監督の新解釈が加えられ、まさに換骨奪胎、全く新しい「人間賛歌の物語」としてよみがえっています。
ですから、本映画は、「原作に忠実でありながら、原作とは全く違うオリジナルの物語」であるとまーさんは考えます。
【絵の美しさ】
従来のアニメーションでは、背景とセル画は別々の様式で描かれるそうですが、本映画ではそれが一体となり、まるで動く日本画を観ているような錯覚に捉われます。
その動く日本画に、季節ごとの鳥の声や風の音、水のせせらぎが効果音として添えられると、何とも言えぬ心地よい感覚が脳へと伝わり、心がどこか遠くの懐かしい場所に連れていかれるような、言うに言われぬ浮遊感を覚えます。
これはまさに、奇跡的な映像といっても良いのではないでしょうか。
【印象的な音楽】
本映画の音楽は久石譲氏によるものですが、中でもまーさんが心動かされたのは、劇中何度となく出てくる「わらべ唄」「天女の歌」です。
音階を変えて歌われるこの二つのうたは、彼女の月における高貴な身分を予感させる伏線として非常に効果的であります。加えてその歌詞も、人間と地球を慈しむ気持ちにあふれており、大変印象深くいつまでも心に残るものでした。
またクライマックスで、月人たちが奏でる音楽も、あっと驚くような曲調でした。「悩みも苦しみもない、不老不死の人々」を音で表わすと、なるほどこのようになるのか、と“目からうろこ”の思いがいたしました。
【プレスコの効果】
アニメーションにおいて、声優あるいは俳優の声を先に録音し、その声に合わせて作画していく手法をプレスコと言うそうですが、本映画はその方法で作られたそうです。
プレスコのせいでしょうか、画と声が真実一体化しており、実写のようなある種のリアリティーを感じました。
翁役を演じた故・地井武男氏の名がが字幕に出て来た時は驚きましたが、このようなシステムにより出演が可能になったのだと、初めて知りました。
◇
まーさんにとって、『竹取物語』は特別思い入れのある古典です。「物語の出で来はじめの祖」として紫式部も認めていた『竹取』。そこには、古い神話伝承のあらゆる型が詰め込まれつつも、「人間賛歌」と「愛の苦しみ・喜び」という新しい文学的視点が組み込まれ、まさに日本の物語文学の全てが内包されていると言ってもよい、非常に奥深い古典なのであります。
まーさんは、是非ともこの「物語の出で来はじめの祖」・『竹取物語』を出来るだけ原文に忠実に、かつどなたにでも面白く読んでいただけるよう、ご紹介したい――
そんな思いが、映画「かぐや姫の物語」を観て浮かんでまいりました。
そこで次回からは(いつもながら突然ですが)、『竹取物語』のまーさん超訳を、少しずつご紹介していこうと思います。
『源氏物語』などに比べますと『竹取』は短編です。しかし全文現代語訳となりますと、かなりの長さになってしまいます(汗)
ですから、途中あらすじ紹介にとどめる省略箇所も設けまして、まーさんが「ここぞ」と思うところは超訳を施し、掲載したいと思います。
皆さまが子供のころ絵本で読まれた『たけとりものがたり』。そして学校の古典授業で、部分的に読まれたであろう『竹取物語』。
それらを思い出しつつ、また比較しつつ、読み進めていただければと思います。
これまでの超訳シリーズと違い、物語を一つ丸ごと扱うわけですので、まーさんにもどうなることやら見当もつきませんが(汗)、楽しみながら取り組んでまいりたいと思います^^

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野山にまじりて竹をとりつつ、よろずのことにつかひけり。
名をば、さぬきのみやつことなむいひける。
昨日、映画「かぐや姫の物語」を観ました。
原作『竹取物語』を驚くほど破綻なく換骨奪胎し、高畑監督の、人間に対する深い愛情が強く感じられる作品でした。以下、感想を少々述べたいと思います。
【原作に忠実でもあり、完全なオリジナルでもある】
あまり知られていないことですが、原作『竹取物語』は「人間賛歌の物語」です。
ご存じの通り我々人間は、仏教で言うところの八つの苦(生老病死に加え、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)を背負って生きています。人はこの世にいる間、愛や恨み・嫉妬や物欲に捉われ、病に苦しみ、死の恐怖に怯え、つまりは常にそうした悩みに翻弄され続けて生きているといっても過言ではありません。しかし、そのような苦しみのさなかにも、我々は季節の移ろいに心動かされ、生きとし生けるものとの深い愛に喜び、時にはこの世のあらゆるものとの微かな縁に驚きを見つけ、魂が肉体を離れるその瞬間まで、激しく静かにこの世を謳歌する生き物なのです。
『竹取物語』の作者は、そんな人間の、時には醜く生々しい・時には美しく愛おしい生の在り方に限りない愛情を注ぎ、人間存在そのものが持つ「おかしみと哀しみ」を、かぐや姫という超越した存在との対比で描いていきました。
原作のかぐや姫は最初、「月の人」として破格の美しさを持つものの「人間」らしい感情をいっさい持たない冷たい人物として描かれています。しかし、五人の求婚者や帝とのやり取りを通じて、彼女は徐々に人間性を獲得し、やがて本来の居場所・月に戻らねばならなくなる頃には、すっかり一人の人間・地球人として喜怒哀楽を理解し、親子愛や男女愛に心を揺らす女性へと変貌を遂げるのです。
だからこそ物語の最後、月からの迎えに対し「人間」としての毅然とした態度をとりつつも、運命のままに月へと戻っていかねばらないかぐや姫と、周囲の人々の哀しみが、読み手の心に強く迫って来るのです。
”人間とは、何と哀れで愛おしい存在なのだろう”と。
このように、原作におけるかぐや姫は、
≪月の人→人間の女性→月の人≫
という変遷をたどりますが、映画「かぐや姫の物語」では、そこに監督の新解釈が加えられ、まさに換骨奪胎、全く新しい「人間賛歌の物語」としてよみがえっています。
ですから、本映画は、「原作に忠実でありながら、原作とは全く違うオリジナルの物語」であるとまーさんは考えます。
【絵の美しさ】
従来のアニメーションでは、背景とセル画は別々の様式で描かれるそうですが、本映画ではそれが一体となり、まるで動く日本画を観ているような錯覚に捉われます。
その動く日本画に、季節ごとの鳥の声や風の音、水のせせらぎが効果音として添えられると、何とも言えぬ心地よい感覚が脳へと伝わり、心がどこか遠くの懐かしい場所に連れていかれるような、言うに言われぬ浮遊感を覚えます。
これはまさに、奇跡的な映像といっても良いのではないでしょうか。
【印象的な音楽】
本映画の音楽は久石譲氏によるものですが、中でもまーさんが心動かされたのは、劇中何度となく出てくる「わらべ唄」「天女の歌」です。
音階を変えて歌われるこの二つのうたは、彼女の月における高貴な身分を予感させる伏線として非常に効果的であります。加えてその歌詞も、人間と地球を慈しむ気持ちにあふれており、大変印象深くいつまでも心に残るものでした。
またクライマックスで、月人たちが奏でる音楽も、あっと驚くような曲調でした。「悩みも苦しみもない、不老不死の人々」を音で表わすと、なるほどこのようになるのか、と“目からうろこ”の思いがいたしました。
【プレスコの効果】
アニメーションにおいて、声優あるいは俳優の声を先に録音し、その声に合わせて作画していく手法をプレスコと言うそうですが、本映画はその方法で作られたそうです。
プレスコのせいでしょうか、画と声が真実一体化しており、実写のようなある種のリアリティーを感じました。
翁役を演じた故・地井武男氏の名がが字幕に出て来た時は驚きましたが、このようなシステムにより出演が可能になったのだと、初めて知りました。
◇
まーさんにとって、『竹取物語』は特別思い入れのある古典です。「物語の出で来はじめの祖」として紫式部も認めていた『竹取』。そこには、古い神話伝承のあらゆる型が詰め込まれつつも、「人間賛歌」と「愛の苦しみ・喜び」という新しい文学的視点が組み込まれ、まさに日本の物語文学の全てが内包されていると言ってもよい、非常に奥深い古典なのであります。
まーさんは、是非ともこの「物語の出で来はじめの祖」・『竹取物語』を出来るだけ原文に忠実に、かつどなたにでも面白く読んでいただけるよう、ご紹介したい――
そんな思いが、映画「かぐや姫の物語」を観て浮かんでまいりました。
そこで次回からは(いつもながら突然ですが)、『竹取物語』のまーさん超訳を、少しずつご紹介していこうと思います。
『源氏物語』などに比べますと『竹取』は短編です。しかし全文現代語訳となりますと、かなりの長さになってしまいます(汗)
ですから、途中あらすじ紹介にとどめる省略箇所も設けまして、まーさんが「ここぞ」と思うところは超訳を施し、掲載したいと思います。
皆さまが子供のころ絵本で読まれた『たけとりものがたり』。そして学校の古典授業で、部分的に読まれたであろう『竹取物語』。
それらを思い出しつつ、また比較しつつ、読み進めていただければと思います。
これまでの超訳シリーズと違い、物語を一つ丸ごと扱うわけですので、まーさんにもどうなることやら見当もつきませんが(汗)、楽しみながら取り組んでまいりたいと思います^^

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